クール・シェンヌ第10回演奏会感想 その3

 休憩後に三善晃先生作曲の3曲。

 
 「五ッ木の子守唄」(混声合唱のための『五つの日本民謡』より)
 「ふるさとの夜に寄す」(女声合唱とピアノのための『三つの叙情』より)
 「生きる」(混声合唱組曲『木とともに 人とともに』より)
 ピアノ:浦史子さん



 あああ、本当に申し訳ないのだけど
シェンヌのこのステージは私にはピン!と来なかった。
 昨年の「方舟」の時のように、
過去のこの曲の演奏では聴けなかった和音の響きなどもあったのだが。



 蛇足を承知で書くと、やはり“響き”を重視しているシェンヌ。
 それゆえ、どの音もどの音も重厚に感じられ、
結果メリハリが無いような印象に。
 これは響きの良いいずみホールが仇になったせいもあるが、
表現のパレットのひとつとして、
ハーモニーの無い、“音”の無い、
「コトバとしての日本語」というのも視野にあったら
個人的な印象はもう少し違っていたのかもしれない。



 突然妙なことを書くが、
タモリがミュージカルを嫌っている理由として

 
 「なんで普通に喋っている途中でイキナリ歌いだすんだよ?!」
 …というのがあって。
 じゃあ合唱ならどうなのか、と。
 ハーモニーは「調和」という意味だが、
例えば切迫した、前のめりの表現で、突然歌いだすミュージカルのように
「ハーモニー = 調和」が現れる合唱という表現とは?


 いやいや、そんなこと言ったら合唱どころか音楽全体まで疑問じゃないか。


 そんな考えも浮かぶのだけど。
 かつて作曲家の権代敦彦氏が
 「大勢で歌うことの意味とは?」と問うたように
 「そこでハモる意味とは?」と私も考えてみたい。


 それは作曲家だけの問題ではなく、
演奏者側の問題でもあると思うのだ。




 例えば「生きる」。言葉ではなく、後半のヴォカリーズで
圧倒的に説得力が増した演奏に「…惜しいなあ・・・」と思ってしまった。
 (あと無伴奏曲でのピアノの音取りは
  「もし、その曲にピアノ前奏があったとしたら」と思って弾きなさい、
  …という言葉を昔、頂いたことがあります)


 どの曲も想いがこもった熱演だったし、
言葉のひとつひとつの扱い方は、
より繊細さと丁寧さを感じられただけに重ねて


 「・・・惜しい・・・」と思ってしまったステージでした。




 休憩後は本日の目玉ステージ。
 (とは言ってもこの演奏会、
 「どれも目玉ステージ。どの曲も最終ステージ上等」なんですけど)


 松下耕先生への委嘱曲『MISSA TERTIA』 
 (ミサ第3番〜無伴奏混声合唱のための〜)


 五ッ木の子守唄のフレーズ?が入った
「Kyrie」から始まったこのミサ曲は
温かみあるキャッチーな旋律と
現代合唱の様々な効果が共存しあう、
聴きやすく、かつ聴き応えのある力作。
 個人的には「Agnus Dei」が中では気に入りました。


 その現代合唱的な効果は、
もう少し人数の多いほうが曲本来の狙いに合っているのかな、と思いつつ
疲れてはいるものの気合と熱が入ったシェンヌの力演が
そんな思いをいつしか打ち消してくれました。


 シェンヌのために松下先生が書かれた、この曲の初演として
聴く側に大変充実した思いを抱かせる演奏だったと思います。



 (つづきます)