「ブラバンキッズ・ラプソディー」


本の雑誌「キムラ弁護士小説に挑む」という連載があって
これ、本来はミステリーなどを読んでもらい、
弁護士的な考察で矛盾点や良く出来ている箇所を述べてもらう、
という趣旨の連載だったのだけど
最近はけっこう普通の書評となっている。
(それでもその論理的思考や物事の整合性を追求する姿勢は面白いけどね)


で、本の雑誌はもう6月号がとっくに出ているのだが
5月号で弁護士:木村晋介氏が激賞してるので読んでみた。
ブラバンキッズ・ラプソディー」(石川高子)


ブラバンキッズ・ラプソディー―野庭高校吹奏楽部と中澤忠雄の挑戦

ブラバンキッズ・ラプソディー―野庭高校吹奏楽部と中澤忠雄の挑戦


小説じゃなく、ノンフィクションです。

1982年、生徒だけで運営されていた野庭(のば)高校吹奏楽部。
60人もの部員はいるものの、その演奏は “箸にも棒にもかからない”
“ひどい” “吹奏楽とは言えない” という評判。
コンクールも県大会にさえ進めず地区予選落ち。
野庭高校の偏差値もその学区では下から数えた方が早く、
ガラが悪いというものだった。
そこへ吹奏楽部に出入りする楽器店の主人に請われ練習を見に来た
中澤忠雄。
彼こそ天理高校吹奏楽部から東京芸大に進み、
チューバ奏者としてプロオーケストラを
いくつも渡り歩いた経歴を持っていたが
自動車事故の後遺症によって奏者を引退し
現在は音楽教室を営んでいる人物だった。
周囲から「県立高校は予算も少ない」など反対され
最初は乗り気ではなかった中澤氏だが
生徒の熱意に惹かれるものがあり指導を引き受ける。
中澤氏このとき45歳。
これが中澤氏着任2年目には全国大会へ進み金賞受賞、
以降輝かしい実績を誇ることになる
野庭高校吹奏楽部の伝説の始まりだった!


うーん、木村晋介氏が書いていた通り、熱い!
まさに「熱血学園ドラマ」という感じ。
しかし、とりあえずその「熱いドラマ」について語ることは脇に置いて、
この「吹奏楽」という世界が合唱畑の私にはいろいろ面白かったので
2つ、そこから書いてみよう。
(なお、吹奏楽には全く不案内なので
 H先生に色々と質問をしたところ非常に丁寧な回答をしていただいた。
 ここでお礼を申し上げます)



●外部から指導者を呼ぶことについて


中澤先生の身分は野庭高校では「嘱託」というもの。
さらにトレーナーとして別の人物が呼ばれる。
(10年後には中澤氏のほかに3人のトレーナー)


合唱でも、もちろんヴォイストレーナーを呼んだりすることはあるけれど、
公立高校の部活動としては、嘱託の先生に指導をお願いする。
さらにトレーナーも呼ぶというのは、かなり珍しいんじゃないかな。
もし野庭高校合唱部というものがあったとしたら
そのまま生徒主導で進めてしまいそうな気がします。


この違いというのは、やはり合唱というのは
ふだん使っている楽器(つまり身体)であるため、
その延長線上で「(外部から指導者を呼ばなくても)何とかなる」
と考えてしまうからなのかなあ、と。
(このメンタリティについては後述)


あと吹奏楽はプロフェッショナルな団体が目に付きやすく、
「上手い演奏者」というのが分かりやすい。
さらに目にするプロの演奏と吹奏楽とでは
技術の差こそあれ、やっていることにギャップをそれほど感じないのでは。
合唱の場合、プロフェッショナルな声楽家と言えばオペラ歌手を連想するはず。
例えば邦人合唱曲をやっている高校合唱部の団員が
オペラ歌手の歌唱を聴いたら、ギャップどころではない。
そういう人に指導をしてもらう、という気にはたしてなるだろうか?




●指導の具体性、「心」の範囲


「音楽はハート」と何度も語る中澤氏。

「みんなは口と指を使って演奏しているけど、
 きかせるのはみんなのハートだ。
 だからハートをねってねって豊かなものにしていかなきゃいかん。
 ただ、技術があったほうがよりハートをひとに伝えやすい。
 だから技術を磨くんで技術をきかせるのが音楽じゃないんだよ。
 いいかい、きかせるのはみんなのハート、音楽は心で歌うものだ」


・・・正直、私みたいなスレたおっさんにはカユいんですけど〜。
でも、「心」について語っていても
言っている内容について反発心は起こらないんですね。
なぜなら「技術」と「心」の範囲が明確に分けられているから。


合唱の場合、その線引があいまい、というか、
「心が技術を凌駕する!」というのを認めている、というか
それを望んでいるフシもある気がするんですよね。



これもH先生に教えてもらったんですけど
佐藤正人さんという吹奏楽の専門家が書かれた文章。
http://www.shobi.ac.jp/wind/kadai/2007/preparation.html


この詳細なチェックポイントは
合唱に使っても非常に有効だと思うのだけど、
この種類のチェック、すなわち客観的に具体的に分析することは
合唱の分野ではあまり見ることが無いような気がします。
(単に私が不勉強なのかもしれないけれど)


そして、合唱人のメンタリティとして上記のような
具体的で現実的なチェックに不快感を示す人が多いように予想をするのですが。


ちなみにH先生の言葉によると
「この程度なら、吹奏楽の世界では一般に受け入れられている、
 と言っていいと思います」
ということなので、そのメンタリティの違いはどこから来るのでしょうね?
(「吹奏楽では3年連続で全国金賞受賞すると
 その次の年にはコンクールへ参加できない」 という内規があるので
 そういうことからも音楽や活動への客観性が磨かれるのでは?という
 意見もありました)




やはり前述したように、
楽器は身体から離れているものなので
音楽の指摘をされてもそれが
「自分 = 楽器」というような受け方はしないだろうし、
演奏技術の上達もわかりやすい。
その反面、歌は体から出るものなので
「自分 = 歌」と同一視してしまい客観的に見る事が出来にくい・・・
ということなのでしょうか?



まあ、合唱と吹奏楽の違いはこれくらいにして
「部活の指導者」としては新米教師の中澤氏が悪戦苦闘しながら
生徒たちと作り上げる音楽。
「自分が生徒に100教える中で、
純粋に音楽のことは10ぐらいだ」と語る教育というものの大変さ。


コンクール至上主義なことに、
私は少し醒めたものを感じないではいられなかったのですが、
激昂して(ホント、怒りっぽいんだこの中澤サン 笑)
「もう辞める!」と合宿の練習場所から離れた中澤氏を
走って走って転んで汗まみれ泥まみれになって
さんざん探し回って中澤先生を見つけた部長:藤田くんの
涙ながらの懇願にはやっぱり胸が熱くなったし、
そういう名シーンがこの本にいくつもある。


学生というのは、適切な場と優れた指導があれば、
無限の可能性を見せるものなのだなあ、と改めて感じ入りました。



中澤氏は1996年に死去。
野庭高校も少子化による高校の統廃合により無くなってしまいました。


しかし、この本、そしてネットで知る野庭高校吹奏楽部の演奏によって
その「伝説」の一端は感じられるような気がするのです。
「復刊リクエストcom.」でも57票を集め、
http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=25272
この本が復刊されたこともそれを証明しているように。