この世界のあちこちのわたしへ 「この世界の片隅に」は傑作だ!


この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)




昭和9年、広島に住む絵を描くことが好きな少女:浦野すずが
昭和18年2月から18歳で嫁入りし北条すずとなり
軍都:呉で暮らしていく物語。


明るく屈託のないすずの人柄がまわりを笑いにあふれさせ。
(単にすずのアホが伝染ってるとも言われるけど…)
緊張の後の緩和、落語的なオチも相まって
昭和初期の生活をいきいきと描くこの物語に魅せられる。









しかし、戦争というものは、
すずとそのまわりの日常へ確実にひびを入れていく。
出征前の別れに来た幼なじみがすずに頼む。




「じゃけえすずが普通で安心した」


「すずがここで家を守るんも
 わしが青葉で国を守るんも
 同じだけ当たり前の営みじゃ」


「そう思うてずうっと
 この世界で普通で…
 まともで居ってくれ」


「わしが死んでも
 一緒くたに英霊にして
 拝まんでくれ」


「笑うてわしを
 思い出してくれ」 




“普通”のすずで居てくれ、と願う幼なじみ。
しかし、かつてあった日常と同じだった“普通”は
すずと、そのまわりから残酷に奪われる。



話題になった著者の「夕凪の街 桜の国」は原爆での喪失が
現代に生きる自分たちにもこんなにも届くことに驚いた名作だった。

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)


同じように「この世界の片隅に」では、当たり前だった日常、普通が
奪われることの喪失もしっかり描きながら、さらにその先の、
再生までも描こうとする。



著者のこうの史代はあとがきでこう書く。(抜粋)

 わたしは死んだ事がないので、
死が最悪の不幸であるのかどうかわかりません。
他者になった事もないから、
すべての命の尊さだの素晴らしさだのも、
厳密にはわからないままかも知れません。
 そのせいか、時に「誰もかれも」の「死」の数で
悲劇の重さを量らねばならぬ「戦災もの」を、
どうもうまく理解出来ていない気がします。
 そこで、この作品では、
戦時の生活がだらだら続く様子を描く事にしました。
そしてまず、そこにだって幾つも転がっていた筈の
「誰か」の「生」の悲しみやきらめきを知ろうとしました。


「誰か」の「生」の悲しみやきらめきを知ろうとしました。


この「きらめき」という言葉は再生への大事なキーワードだ。
まばゆいばかりの「輝き」ではなく、
微かに光り、そしてどこにでもある「きらめき」。


この物語の最終回に
「しあはせの手紙」とおそらく読者へ向けた(*コメントに追記)題の回では






「貴方など この世界のほんの切れっ端にすぎないのだから」
「しかもその貴方すら
 懐かしい切れぎれの誰かや何かの寄せ集めにすぎないのだから」


…と、一見突き放したような言葉が現れる。
しかし、それらの言葉の本当の意味するところ、
そして題名の「この世界の片隅に」が表すところを
最後の最後で知ると、体の芯から納得と同時に涙があふれてくる。


また、挿話的な「鬼いちゃん」のマンガと
「絵を描くのが好き」というすずの設定が、
「マンガ」という表現と物語に、大きな力が存在していることを
教えてくれるラスト。
(是非とも最初から読み返して欲しい!)



誤解されるのを承知で書くが
このマンガ「この世界の片隅に」は
確かに「戦災」「ヒロシマ」「原爆」を描いているが、
そんなキーワードを一切忘れて読んでも良いかもしれない。
片隅に生きている私たちが共有する「きらめき」。
それさえ覚えていれば、そのキーワードは脇に置いていいのかもしれない。
キーワードをどうするかは、
この作品を読み終えた私たちにかかっているのだから。



わたしたちは世界の中心なぞではなく、片隅に生きていて、
そして切れっ端にすぎなく、
懐かしい切れぎれの誰かや何かの寄せ集めにすぎない。
しかし、それは何と素晴らしいことなのだろう。



片隅に生きているからこそ、
切れっ端で、寄せ集めだからこそ、
生のきらめきは自身に存在し、
そしてまわりにも、このマンガにも確かに存在し、通じ合える。


それはなんて素晴らしいことなのだろう、と思うのだ。