コンクール出場団体あれやこれや:出張版 その2


ここ数年の全国大会の特徴としては
「演出付きのステージ」「ピアノ以外の楽器との共演」
「シリアスではない明るく楽しくなるような選曲」
…などが多くなっているように思いますが、
もうひとつ忘れてはならないのは
「名曲への原点回帰」・・・とでも言うべき選曲でしょうか。


2年前のCANTUS ANIMAEのバッハ。
今年のゾリステン アンサンブルのブラームスなどがその例に数えられますね。


そして2年前にブラームスを選曲し、
シード団体として出場した昨年には
ブルックナーのモテットを
素晴らしい演奏で披露したこの団体が
昨年と同じ3番目に出場です。



関西支部代表・奈良県
クール・シェンヌ <Choeur Chene>
(混声29人・8年連続出場)



今年のシェンヌの課題曲はG1:ジェズアルド、
自由曲はヨハネス・ブラームス「Vineta」
そしてマックス・レーガー「Abendlied(夕べの歌)」!


ロマン派作曲家の2作品。
なぜ、このような選曲をされたのか、
指揮者の上西一郎先生からメッセージをお預かりしました。


ロマン派に拘る意味は特にありません。
ただ、現代様々な合唱曲が生み出されていますが
それらの源流をたどるとバッハやブラームスメンデルスゾーンに行き着きます。理由はそれだけです。


合唱音楽を「学ぶ」という視点で選曲した場合
それらの音楽に取り組まない訳にはいかないと思うのです。


100年、200年の時を越えて認められ続けるものの
本質的な魅力はどこにあるのか?


不器用な私たちでも、コンクールという特殊な演奏機会であれば
その作品とじっくり向き合い、多くを学べるのではないかと思います。


今回選曲したレーガーは後期ロマン派の中でも地味な存在です。
しかしその絶対音楽的な作風を貫き通した頑固さは、
まさにドイツロマン派的だと思います。
「世紀末」的な音楽の時代でありながらも、
その半音階的転調がバッハのそれに通じるものを感じます。


コンクール向きでない作品、という言い方は大嫌いですが、これはまさしくその代表選手です。
彼が傾倒したブラームスの、むしろ古典的とも言える小品とのカップリングは、実は目には見えない一つの「線」で結ばれると思います。


そして「理性、回帰、伝統」の上に作品を書きつづけた姿勢は、
「狂気、前衛、奔放」の中で大胆に自らを表現しようとした
作曲家ジェズアルドの生きざまや作風と
見事なまでの対比的関係にあるように感じます。

上西先生、ありがとうございました!


さらに、みなさんに是非読んでもらいたいのが
ハーモニー誌 春・148号 51ページの
「今こそ歌い継ぎたい名曲」という企画での上西先生の文章。
「王道を行く楽しみ」という題で、
今回の自由曲でもあるレーガーの「Abendlied(夕べの歌)」について
語られています。


「コンクールのための選曲」、ではなく、
大きな音楽活動、それを支えるものとしての選曲。



さて私がクール・シェンヌの演奏に初めて出会ったのは7年前の全国大会。
それから演奏会やジョイントコンサートなどで
何度もシェンヌの演奏を聴いてきたのだけど・・・
・・・ここでシェンヌのみなさんへお詫びしなければならないかも。


というのは今までシェンヌを聴いた感想で私は
やれ「瞬発力が足りない」だの「こちらに迫ってくるものがない」だの
挙句の果ては「眠たい演奏」などと書いてきたのですよ!



何と言うのかな、料理で例えると
「味が足りない」と思った時は香辛料や調味料で味を足せるわけですよ。
でも、素材本来の旨みが足りない時は、
表面上は香辛料や調味料で誤魔化せるけど
その素材本来の味わい深さはどうやったって出ないわけで。
それでも、ほとんどの料理人は目の前にいる客の為に
素材本来の味が足りなかったら
調味料や香辛料で表面の味を間に合わせでも調えるわけですよ。
それって当然ですよね?

でもシェンヌ、上西先生と言う調理人はそれをしない。
「味が足りないよ!」というクレームにも
「すいませんね〜」と言いながら何も加えずただアクを掬うのみ。
素材の味が出るのをじっと、ずっと、最適のタイミングを待っている。



今思うに、上西先生、シェンヌの実力からして
私のイチャモンを黙らせる演奏をするのは
たやすいことだったと思うのです。
しかし、シェンヌは決してそれをしなかった。
なぜならそれはその時のシェンヌにとって、
脇道に入るような演奏だったから。
シェンヌは脇道にそれるような、
効果だけを狙うような浅い演奏はしなかった、絶対に。



上西先生の文章の題である「王道を行く楽しみ」。
そしてMODOKI指揮者の山本さんがシェンヌを表現した
「王道を行く合唱団」という言葉。
ここで私は「王道」の意味を考えます。


「王道」を進むのは「王」である存在のみ。
つまり「王として選ばれた者」しか進めない道なのだろうか?
いや、違う。絶対に違う。
シェンヌの演奏を7年間だけですが聴き続けてきた自分は断言できます。
王として「選ばれる」のではない。
そんな受け身ではなく、主体として
王の道を「選ぶ」のだ、と。


どんなに先が険しくても、歩みが遅くても、歩幅が小さくても、
ただまっすぐに、一歩ずつ前へ進み、歩き続ける。
そしてどの道が王道なのか、常に自身へ問い続け、道を選び続ける。
それこそが「王道を行く」ことなのだと。



千里の道も一歩から、などと人は簡単に言います。
だが、脇道に一切それず、
本当に千里の道を一歩ずつ進む人にはなかなか出会えない。
それでもシェンヌは、そんな稀有な存在だと思います。



一歩ずつでも千里の王道を進み続けたシェンヌが、
今、どれほど遠くへ、そしてどれほど高みへ進んでいるか。
どうかこの札幌で実際に聴き、確かめて欲しいのです。



最後に前述のハーモニー誌:上西先生の文章の終わりを引用しましょう。


まずは「王道を行く」。
名曲の「魅力」を見極め、
連綿と息づく合唱音楽の一つの極致に、
これからも正面から挑み続けたいと思います。


(続きます)