「おとなの合唱団への脱皮」の難しさ つづき


もちろん、それぞれの問題に解決策はあるのでしょう。
部活の先生にも「一般合唱団」の世界へもっと目を向けてもらい
選曲の幅を広げるべきだ、とか。
一般合唱団と合同の練習やジョイントコンサートで
練習のノウハウや運営方法を学ぶ、とか。
OB合唱団内で力を認めた団員に外の世界を積極的に学んでもらい、
そのやり方を先生と話し合って団員にも認めてもらうようにする、とか。


・・・しかし、私が書いたような解決策って、
「学生時代に培ったものを守り、磨いていく」という
多くのOB合唱団の理念と反しているのではないでしょうか?
どれも学生時代のものから外れ、壊すようなものですし。


結局、「おとなの合唱団」への脱皮、というのは極言かもしれませんが
「OB合唱団らしくなくなること」なんじゃないかと。どうでしょう?


選曲に限って言えば
今回の全国大会でローズクォーツ、宮城第三女子OGの選曲は
現役時代に演奏した曲なわけです。
コンクールの戦略的には、過去に演奏で高い評価を得た曲を
OB団体でも選曲するという行為は正しいのですが・・・。


かつて「選曲は服の選び方と同じ」
と喩えた審査員の先生がいらっしゃいました。
その論で話を進めると、
現役時代に演奏した曲をOB合唱団でも演奏するという事は


「卒業しても学校の制服を着続ける」
・・・みたいなもんじゃないでしょうか。


制服を着る側は着慣れているし思い出もあるのでしょうが
外部の人間からは


「その制服、いったいいつまで着るの?」
「制服以外の服を持っていないの?」という疑問が湧いてきます。


もちろん
「このセーラー服は私たちにとっても似合ってるのよ!」
「私たちに合うようデザインされたブレザーなんだから!」
…ということでその制服をとても大事にしている場合もあるでしょうが
それならそれで他の服もちゃんと着こなせることを証明しないと
卒業しても制服を着続ける説得力が生まれないんじゃないでしょうか。
制服、それと同じような服しか着ていない人から
「この制服が一番似合う!」と言われても説得力が弱いのでは。



いろいろ厳しいことを書いてきましたが
まず、人が出すもの、人を形作るものは、
入れたものからほぼ作られるということ。
それは肉体的にも精神的にも同じことだと思います。
偏ったものを体に入れ続けていると偏った、バランスの崩れた体になる。
そして心も。


さらに膨大な合唱世界の中で、
ある特定の曲だけをずっとやり続けるのは単純に「もったいない!」。
私の体験ですが高校を卒業し数年経って、
高校の合唱部で同期だった女性に会ったとき。

その女性、当時は合唱をやっていなかったのですが
私が今練習中の曲を話すと(確かプーランクだったかな…)


「えー? 言葉の分からない曲って面白いの?!」


・・・どう答えたらいいか、困った記憶があります。
私が在籍していた合唱部はほとんど海外の作品を演奏することなく
特定の邦人作曲家ばかり演奏していました。
もちろん、色々と大事なものを受け取りましたし
得がたい体験もさせてもらい感謝しているのですが。
同期の女性のように外国語の作品というだけで拒否、
いやそれ以前の状態なのはつくづくもったいないよなあ、と思うのです。



私の勝手な願いですが、
先生に限らず誰かに何かを教える人は
教えられる人の「気づき」、つまり目を開く可能性を
狭めることの無い指導を願ってしまいます。


話はちょっと変わりますが、
大人になっても多くの食べ物が食わず嫌いの人って
正直あまりカッコよくない。
でも、アレルギーとか
何度も試したがどうしても口に合わない場合を除き、
幼少の頃、一緒に食事をする人が
様々な食べ物を「これ、美味しいよ!」と食べていれば
成長してもそれほど食わず嫌いにはならない気がするんですよね。



さまざまなものへ「食わず嫌い」にならない心を育てる。
そうしないと外の世界に出たとき、
「食わず嫌い」のままでは偏った心になる可能性が高い。
ましてや外の世界に出さず、自分の元に置いておく場合なら


・・・ますます「いろいろな食べ物」を強く意識して
「これも美味しいよ!」と差し出すことが必要になると思います。



まったく部外者で、現場の先生方の状況を知らない人間の
勝手な願いかもしれませんが、
「OB合唱団らしくなくなること」に少し進んでも、
これらを先生方に意識して欲しいな、と願っているのです。
合唱という1ジャンルだけでも膨大に広がる世界。
そのほとんどを「好き」と言える。


それって素敵だと思いませんか?
そして幼かった頃には苦手だった食べ物(音楽)が好きになる。
それこそが「おとなの合唱団への脱皮」だと思うのですがどうでしょう?