全国大会高校Aグループ雑感


高校A部門を聴いた雑感を記しておきたいと思います。




1)言葉の扱い方



子音の深さや立て方、子音・母音の割合、母音の形。
言葉の当てはめ方等々で演奏は印象が大きく変わると思うんだけど
「どうして?!」と思うくらい無神経な団体がいくつもあった。


顕著だったのは課題曲「露営のともしび」。
ソプラノが美しくハミング(ヴォカリーズ)で旋律を奏で
メゾとアルトが緊張感をもって入り、
その後を受け継ぐようにソプラノが余韻たっぷりに旋律。
高まった空気の中、歌われる初めてのことば!


「ろえーいのぉー ともーしびーがぁ〜(棒」


ガタガタガタッ(←椅子から転げ落ちる音)
いやマジでそんな「狙ってんのか?!」と思うほど
その前の音楽とギャップがある団体が多かった。



歌う側がこの曲に対し思い入れたっぷりなのは
表情などからじゅうぶん分かる。
ただ、そのアウトプットが好きな人に対し
気の利いた手紙とプレゼントを渡すか
ストーカーがその人のゴミ箱を漁る・・・ぐらいの差があった。



例えば発声を良くする、音程を良くする、というのは
かなり難しいことだし時間もかかると思うが
言葉の扱いを良くするのは比較的難易度が低いのでは?


詩の解釈などはたくさんやっていると思うので
イメージが固まっているのなら
団員さん同士、いろいろなやり方でテキストを語ってみて
お互いにイメージに合うか品評し合えばいいのでは。


「露営のともしび」での「まぼろし」という言葉は
8分音符4つ、と楽譜には書かれているけど
まったく同じ長さで歌え、というわけじゃないよね。


ある名優がレストランのメニューだけを読んで
その場にいた人を泣かせた、という逸話を聴いたのは
自分が高校生だった時だろうか。
その時は「んなバカなことあるわけねー」と思ったけど
今なら「…ありえるかも」と思う。
母音、子音それぞれの違い、リズム、語調が聴く人に与える影響は
その言葉の表面的なものより多大なときがあるのでは。



「ろえーいのぉー(棒」の団体いくつかは
(そのインパクトが強かったせいもあるが)
他の曲でも「伝える」ということに意識的ではない、
表現が内向きな団体がほとんどだったと思う。





2)はじまりの感動を持続して欲しいなあ


どの団体も、課題曲も自由曲それぞれも、
曲の出だしはとても良い。「おっ!」と思う。
だけど、それが持続しない・・・。


ありがちな例としては


「出だしは印象的」 → 「急速なクレッシェンド(興奮しすぎ?)」


→ 「すぐに(音量的に)頂点」


→「しかしその頂点があまり練られていない」
 (響き、パートバランスなど…
 ずーっと慣らし運転をしていて
 今この場で初めて全開で回してみた、という印象)


→「急速なデクレッシェンド(音楽の興奮を保たない)」


→「雑な休符」
(フレーズの終わり、開始が意識的ではない)


→「ふたたび同じフレーズでも全く同じように歌う」(飽きる)



こんな感じの演奏がけっこう多かった。
なんか


「はじめは盛り上がってガッつくけど
 すぐ果てちゃって興味が無くなり
 2回目もまったく同じ攻め方で工夫が無い」ような。
・・・いや、歌の話ですよ?



歌い手の生理というものがあるから
ある面では仕方が無いけれど
「こういう傾向になりがち」というのは意識するといいのかも。





3)鈴木輝昭作品


…に関しては別にアンチでは無いのだけど。
私が勝手に鈴木作品の魅力と思っている特有の金属的な響き、
分断される言葉による異化の演奏効果などが
ほとんど感じられない演奏がいくつかあった。
そういう演奏を目指している、という段階でもなく
速いテンポで多い音数をわーっ、と演奏すればそれで良し、のような。


・・・私が単純に鈴木作品の他の魅力を知らない、
感じられないだけなのだろうか。



分断される言葉に関連して、
鈴木作品だけではないけれど
「言葉ある歌とヴォカリーズの違い」というのが
あまり感じられない演奏もいくつかあった。


感情のほとばしりによる、「言葉にならないほど」のヴォカリーズなのか。
それとも効果としてのサウンドのヴォカリーズか?


それらを意識しないで言葉からヴォカリーズ、
あるいはその逆でも、
さらっと同じように流される演奏が多かったのが残念。




などといろいろ勝手なことを書いてきたけど、
全国大会へ出場される団体を率いる先生には
本当に敬意を表したいし、凄いことだと素直に思う。


AB両部門終了後、
会場で一般の部で指揮をされている先生と
お話をする機会があったのだけど
私が、とある団体の演奏に関し
ハーモニーを意識せず、
あまりにも「歌」だけで楽曲を処理することへ
疑問を口に出すと



「その気持もわかるけど・・・
 高校の3年間ではどちらかを選ばざるをえない、んだろうね」
という意のことを返された。
ううむ、なるほど、である。



自由曲:鈴木作品の選択に関しても
これはまた違う某先生の発言だが



「鈴木作品をずっと演奏するということに疑問が無い訳ではない。
ただ、『高校は毎日練習できていいですね』などと言われるけど
決してそんなことはなく、進学校の今の学校では会議などで忙殺され
私が指導できるのは週に1回ぐらい。
その練習環境で『これを深めておいて』…と
ブラームスの曲を渡しても音楽的に深めるのは彼女たちには難しい。


しかし鈴木輝昭作品なら彼女たちだけで
音程とリズムは極めることが出来るんですよ」との言葉。


・・・うーん、難しい問題だ。
生徒たちだけである程度極められて、
かつコンクール的に効果のある楽曲として
鈴木輝昭作品が選ばれてしまうのは仕方が無いことなのだろうか。


大谷研二先生の
「簡単な音楽を音楽的に深めるのはプロフェッショナルの領域なんです」
という言葉を思い出します。



次は印象に残った各団体の感想をできるだけポジティブに書こうと思います。