MODOKI ☓ CANTUS ANIMAE joint concert in Tokyo感想 1

2011年3月13日 15:00〜
北とぴあ さくらホール



2日前の11日に起こった東日本大震災の為、
開催も危ぶまれたこのジョイントコンサート。
演奏前に指揮者の雨森文也先生が
この震災で被害に遭われた方々へ
心からのお見舞いを述べられた後
団内でも開催することに葛藤があった旨を説明。


さらにCANTUS ANIMAE(以下CAと表記)の代表の方が
さくらホールは地震に強固な設計で安全なことを説明。
この日も余震が何度も起こる関東地方で
極めて異例な事態の中、緊張感に満ちた雰囲気の演奏会となった。



第一ステージは「ブルックナー モテット集」より3曲。
指揮は雨森文也先生。
約43人のメンバーが並ぶ。


最初の「キリストは我らのために(Christus factus est)」
大変遅く、重々しいテンポで始まり
この事態への沈痛さ、そして鎮魂を表しているよう。
「エッサイの若枝(Virga Jesse)」
pacem Deus reddidit(神は平和を回復したまえり)」からの
どこまでも広がり、高くなっていくような響きと演奏が魅力的。


ただ、こういうことを書くのは酷だとは思うが
全体的に声が少し疲れている印象。
もちろん団員の多くが自宅へ帰れず職場に泊まったり
自宅へ帰る途中に足を怪我し、椅子へ座っての演奏や
前日、当日の練習などに充分参加できなかったこともあろう。


そしてもうひとつ気になったのは
以前のCAの響きよりもかなり柔らかくなった印象がある。
音を押し付けず、硬直せず、自在に流れる柔らかさ。
それは響きだけではなく、
音楽の流れとしても「決め事」ではない、
その場その場での柔軟な音楽を
雨森先生が目指している故の柔らかさがあったのだが、
その瞬間的な音楽に団員がついて行けず
チグハグな印象を受ける場面が何度かあった。


これも団員の疲れか、
本来なら直前の練習で解消されていた問題かは分からないが
残念に思う。


しかし最後の「正しき者の口は(Os Justi)」
その音の柔らかさに加え、温かさ、優しさなども感じられ。
中間部からのポリフォニックな箇所は
団員それぞれの歌が集い、各パートの歌になり。
そのパートの歌が絡み合い重なり合った末、合唱になるという
本来、合唱の演奏としてあるべき姿を感じさせてくれた。
個々が全体へ埋没せずに、それぞれが輝いている。
曲終盤の「Alleluja」は
「キリストは我らのために」の冒頭と同じように
祈りと、そして慈しみを込めた歌唱。
前述のように声の疲れと目指す音楽との行き違いはあったが
個々の団員の祈りがどの曲にも深くこもっているステージ。




第二ステージは
「祈りの歌 〜 古(いにしえ)から現代(いま)へ 〜」と題された
同じテキストで昔の曲と現代曲を対比させるもの。


合唱はまずCANTUS ANIMAEで
指揮は山本啓之さん。


曲はパレストリーナの
「バビロン川のほとりで(Super Flumina Babylonis)」
同じ合唱団なのに硬質な響きが出てくるのが面白い!
そして雨森先生とはまた違った緊張感。


故郷を追われ、さらに故郷の歌を強いられる悲しみの旋律が
それぞれのパートから汲めども汲めども枯れない泉のように
沸き上がってくる。その想いと歌が涙腺に影響を。


2曲目は同じテキストの(こちらは英語)
フィッシンガー「By The Waters of Babylon」
舞台上に広く立ち、ささやきから始まる音楽は
暗く、張り詰めた雰囲気。
パレストリーナとは違い、絶叫に近いほどのフォルテシモ。
そんな大音量なのに音楽を見失わず、表現の柔らかさを保つ。
特に限界までのフォルテッシモから
一瞬にしてピアニッシモへ移る音楽の設計と巧みさは背筋に寒気が。
やはり悲しみが全体を覆う曲想だが、
悲しみだけではない、
亡くした土地を想う心のぬくもりも同時に表現されていたのが
コントラストとして優れていたように感じる。


この2曲だけのステージは
私が初めて聴く、指揮者:山本啓之さんの客演ステージだったが
指揮者、CAの合唱もお互いに気合が入り、噛み合った
大変充実したステージだったのではないか。



(続きます)