MODOKI ☓ CANTUS ANIMAE joint concert in Tokyo感想 最終回


最後のステージは「五つの童画」。
高田敏子詩、三善晃作曲の邦人合唱の名曲。
指揮は雨森文也先生。
ピアノは前田勝則先生。


「五つの童画」という曲のテキストは「童画」という言葉から
子供を対象とする五つの情景といったものを連想してしまうが
童話がある面では残酷な影が潜んでいるように
この「童画」も例外では無い。


音楽は童の無邪気さと残酷さを表すように
音もリズムも響きもよじれ、進み、立ち止まり、跳ね回り、
そして時に永遠と思うほどの静寂を想わせる。



演奏は「三善晃の音世界」を表現するには
この合同合唱の響きは、少し精度が足りない印象も。
ただ、その響きへの違和感も一瞬に消えてしまうのは
ピアニスト:前田勝則先生の音が
三善世界から真に降りてきたものだから。
鋭く、きらびやかに、
日常へ落ちそうになる合唱をそのピアノで掬い上げ、
縫い進め、確固とした世界を造り出す。



醒めた視線の下、語られる景色、風見鶏の行く末。
世界の豊潤さを体現したような女声の入りが印象的だったほら貝。


この「五つの童画」の表す陰影はつくづく残酷だ。
「風見鳥」では風の言うままに見、振り回され、
遂には死んでしまう、主体を失った虚しさを。
「ほら貝の笛」では
海、ほら貝、人をかつて結びつけたものの喪失を。
「やじろべえ」では己の存在が影でしかない恐ろしさを。
「砂時計」では決して取り戻すことの出来ない、
過ぎてしまった時の哀しさを。
生きることで味わう様々な苦しさ、絶望をこれでもかとばかり
音楽と言葉で聴く者へ叩きつける。
今日の演奏も、そんな影を充分に表現していた。


そしてこの「五つの童画」の世界と
現在自分を取り巻く、
苦しみに満ちるこの世界を重ね合わせ、
4曲目の「砂時計」では体が沈み、
足元が泥に呑まれていくような心になっていた。


だから空白の後、
最終曲の「どんぐりのコマ」が流れはじめたとき。


前4曲とは全く違う、あまりの音の明るさ、温かさ、優しさに
ほとんど涙が出そうになった。


どんぐりの頭はなぜとがっている…



合唱は、眠りを覚ますようにどんぐりへ柔らかく呼びかけ、
どんぐりたちの新しい世界へ沸き立つ細やかなリズムの跳躍。



樫の木の子どもであるどんぐりたちを
見守る優しいまなざしがそこにあった。
世界へ送り出そうとする強い声の力があった。


プログラムに記された
この曲のライナーノーツに三善先生が書かれた一節。

どの詩にも破滅や絶望、失意の相をもたらしたと思いますが、
私は、それらを胎生の糧としない愛を信ずることができません

前4曲で描かれた破滅、絶望、失意を糧とした上で生まれた、
愛という切なる想いがこの「どんぐりのコマ」に満ち溢れていた。




「子どもはなおもひとつの希望」とは
三善先生の別の合唱曲、谷川俊太郎氏の詩句。



 こどもたち
 雲と風


 もういいよ 行け
 とんがりあたまのコマ
 輪になってまわれ



雲と風が舞う新しい世界へ、
希望の象徴である子供たちを送り出そうとする、クライマックス。
最後の「まわれ!」
フォルテシモのどこまでも遠く高く届けようとするその音には
力強い願いと希望が込められていた。






アンコールは山本啓之さんの指揮で
武満徹「小さな空」。


これにも最初の一音でここまで想いが込められるのかと
驚くほどの温かさが。
青空に浮かぶ綿のような雲、
真っ赫に燃えるステンドグラス、
涙のように光る、小さな星・・・。
自身の子ども時代を描いたこの詩で
武満少年の眼からこの世界を見ているよう。
口笛の音色に自分の子どもの時への郷愁と
生きているこの世界のさまざまな彩り、豊かさ、
そして子どもであった自分自身を愛しく思わせるような演奏。




今回の演奏会のプログラムは
もちろん震災前に決められたものだ。
だが、偶然にも前半の宗教曲では祈りの表現としての歌を。
「風紋」では恋愛から描く男女の生の一面を。
最後の「五つの童画」では様々な苦難を経た上での
愛と希望を歌で伝えるものとなった。
さらにはアンコールの「小さな空」も。
この演奏会を聴いて、もしもテーマを定めるとしたら、
それは「生」だ、と言い切れるほどのメッセージ性。



この感想の最初に、演奏会開催の葛藤があったと記した。
不幸中の幸いでまだ計画停電が実施されず
交通機関も一部では止まりながら
かろうじて動いていた状況のため開催できたということもあろう。
何が正解かは私にも分からない。
他の演奏会のように開催しないことも
ひとつの選択として尊重されなければならないと思う。



ただ、それらの状況や意見を受け入れながらも、
この演奏会を私が肯定したい理由は
先行きが見えず、辛い状況が取り巻くこの世で
今まで聴き続けた合唱というものが、音楽というものが、
演奏を聴くことで、
自分の傍らにいつも存在していたこと。
そしてそれらが自分を励まし、
光を示してくれるものだということを
改めて教えてくれたからだ。




今、さまざまな知らせが目から耳から入り、
その重さに身が潰されそうに思うとき。
果てのない暗闇に直面しているように思うとき。
この演奏会の音を記憶から取り出し、耳に当ててみる。


音楽は、体の飢えも渇きも癒さない。
明かりが欲しい時の電気や本当に寒い時の暖には成り得ない。
生きていくために、本来必要なものではないかもしれない。


ただ、音楽は心が動こうとするとき、
ともすれば沈みがちな心を支えてくれるときがある。
心が向かおうとする行く手を照らしてくれるときがある。


この演奏会の記憶も、そのような音になった。


音楽は、人の声が創り出す音楽は、人を支え、励まし、
そして彼方へ光るものとなってあなたを照らすかもしれない。



この演奏会を思い返しながら考えていること。


光の射す方へ。
未だ届かない心と体を持つ人へ、
いつか必要になったとき、音楽を届けられれば。
そのためには何が。



私はいま、考え続けている。
歩きはじめるために、手を動かしはじめるために。