スウェーデン放送合唱団倉敷公演感想 その2




続いてはドビュッシー:シャルル・ドルレアンの3つの歌。


1曲目の
Dieu! qu'il la fait bon regarder! (神よ、なんと彼女を美しく見せ給うことか)
(「神よ、あの女を美しくお創りになった方よ」が
 プログラムに書かれている曲名だけど違和感あるよね)


最初の「Dieu!」の響きに「…あぁ!」とうめく。
なんだこの全てのパートが一体となった
「響き」としか言いようのない軽やかな音の風は。


優れた発声はもちろんその理由のひとつだが、
同時に他のパートを、全体を聴き、合わせた声を出す
優れた耳も必要なんだろうなあ・・・。


デッドな空間へ伝えるための強い声を集めただけの合唱とは違い
ホール音響を考え、客席に空気が漂うような「響き」。素晴らしい。



ブラームスでもそうだったのだけど、
そんな一体となった響き、ハーモニーを聴かせるだけではなく、
要所要所で各パートのフレーズが浮き上がるのも
スウェーデン放送合唱団の美点。
ただ前に出るのではない。
テナーが、アルトが、バスが響きの中から
ふいに輝きを増したように迫ってくる。
また、その輝きを増す部分を選ぶセンスも心憎い。



なめらかな、たゆたう音楽の風を聴かせた1曲目。
太鼓を模したリズムにアルトソロが絡む2曲目も良かったが
3曲目の「Yver, vous n'estes qu'un villain (冬よ、お前はおぞましい)」には
考えさせられた。
合唱好きな人はこの曲が比較的速いテンポで進む
緊張度が高い曲なのを知ってるだろう。


この曲でスウェーデン放送合唱団の演奏は非常に切迫しているが
決して焦ってはいない。
それは観客に「緊張という表現」は伝わるが
歌う側の土台は全く崩れず、揺れていないということだ。
実際、歌う姿の体幹と言うべきものはブレず安定している印象。



かなり前から
「自分が感動しなければ、聴く人に感動を伝えることができない」という言説に
違和感を持っていたのだけど。


いや、楽曲の感動を理解し、表現として伝えるという行為は正しいのだ。
しかしそれは
「自分が感動している状態を見せれば(聴かせれば)、観客にそのまま感動が伝わる」
…という間違った認識に陥りやすい。
すなわち演奏中に表現者が単純にそのまま笑う、泣く。
それが観客の感情へ直接作用し、動かすというもの。



かつて著名なボイストレーナーが仰った
「舞台に本物のホームレスを上げても、それは舞台として成立しない。
 役者の『ホームレスのように見える』演技があることで舞台が成立する」
という言葉が強く記憶に残っている。


「自分が笑えば(泣けば)そのまま観客へその感情が伝わる」という
客観視が全く無く、自己完結した考えについては
作曲家:堀内貴晃さんのツイッターでの発言。

「表現の送り手に(意識的に)なったことのない人が多くて、
 ひとたび演奏などで表現者になった時に、それに気づかず、
 受け手と同じ目線で表現に臨んでしまうからだと思う」

「受け手のイメージする表情は、送り手にも共有されているという無意識」

が理由なのだろう。


そういった送り手と受け手のズレに気づくことも、
客観視を持ち、自己完結から抜け出す、
…つまり「表現すること」の始まりなのだと思う。



これには反論があって
「舞台上で泣いたり、笑ったりして歌う姿に心動かされたことはないのか?」
というものがあるが、自分にももちろんある。
舞台上の生の感情に共感して泣き、笑ったことも幾度と無くある。
しかしそれは特別なタイミングが全てであって
再現性はなく、自分たちの意思で出来るものでは無いことがほとんどだ。
それは決して「表現すること」では無いのでは?



送り手の自分は決して揺れず、焦らず、
しかし受け手の観客には切迫したものが伝わる・・・。
スウェーデン放送合唱団の演奏は、
表現として非常に望ましいものだったと私は思う。




(続きます)