いとうせいこう「想像ラジオ」。


いとうせいこうさんの「想像ラジオ」という本を読みました。


想像ラジオ

想像ラジオ


海沿いの小さな町に立つ、高い杉の上に引っかかっている男。
自称、DJアーク。
38歳のその人が
「想像力が電波であり、マイクであり、
 スタジオであり、電波塔であり、つまり僕の声そのもの」である
「想像ラジオ」を木の上から放送している、というお話。


突飛な設定のこの小説、
読み進めていくと東日本大震災を扱ったもので、
軽い口調でしゃべり続けるDJアークは津波に流された死者。
想像ラジオを聴いてDJアークと交流する
リスナーもみな死者であることがわかります。
読者にはそのことが分かるけれども、
DJアークもリスナーも、自分が死んでいるということを
あまり分かっていない(分かりたくない?)様子。


あの時の死者を代弁する、想像するフィクションは
私も多く目にしてきました。
心に響く作品もありました。
しかし・・・それらの作品に触れているうちに
こんな疑問が浮かんでくるのです。


「被災地の生きている人の心を想像するのも躊躇するのに
 ましてやその死者の心を想像する?」
それは果たして正しい、あるいは良いことなのだろうか。
遠く離れた地で、何もできない代償として
死者の心を想像し安堵を得ているだけではないのだろうか…、と。


全5章からなるこの作品では第2章で
その問題に触れます。
いとうせいこうさんご自身と思われる
作家Sを含む福島を回るボランティアグループの5人が
東京へ向かう車内で、かすかに聴こえる想像ラジオの音、
広島にて死者を鎮魂する体験などの話のあと、
死者の声を想像することに対しこんな反論を受けます。

その心の領域っつうんですか、そういう場所に
俺ら無関係な者が土足で入り込むべきじゃないし、
直接何も失ってない俺らは何かを語ったりするよりも
ただ黙って今生きてる人の手伝いが
出来ればいいんだと思います。

もっと遠巻きの周囲から見守らせてもらうくらいのことしか、
俺らはしちゃいけないし、そうするべきなんだって


想像することへの限界。
想像が生きている者を傷つけてしまうということ。
しかし死者のその声に耳を澄ます行為は禁止出来ない…。


そして第4章。
男女ふたりの会話でこんな言葉が出てきます。

「他の数多くの災害の折も、
 僕らは死者と手を携えて前に進んできたんじゃないだろうか?
 しかし、いつからかこの国は
 死者を抱きしめていることが出来なくなった。
 それはなぜか?」
「なぜか?」
「声を聴かなくなったんだと思う」
「……」
「亡くなった人はこの世にいない。
 すぐに忘れて自分の人生を生きるべきだ。
 まったくそうだ。いつまでもとらわれていたら
 生き残った人の時間も奪われてしまう。
 でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。
 亡くなった人の声に
 時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、
 同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に」
「たとえその声が聴こえなくても?」
「ああ、開き直るよ。聴こえなくてもだ」


最終章でDJアーク、リスナーがどうなるのか、
それは本書を取ってもらうとして。
東日本大震災というものを描こうとするだけではなく、
作家として、いや人間として想像することの意義、
死者との関わり方を深いところから問うこの作品は
作家いとうせいこうさん16年ぶりの小説という意味を感じられたのです。