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タリス・スコラーズ演奏会感想



6月12日アクロス福岡
6月14日兵庫県文化センター大ホール



会場も座席の場所も違うため、
同じプログラムでもかなり違った印象がありました。


まず12日のアクロス福岡シンフォニーホール。

タリス・スコラーズ公演での客層は
いわゆる合唱の演奏会よりは
リタイアをされたような年代が多かった印象。
合唱ではなく「古楽」「クラシック」枠だからなのか。
かなり客席は埋まっていました。


福岡公演、席はS席7000円のチケット。
前から4、5列目、ステージ向かって左端という
やや前過ぎる席。

 

 

 

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指揮のピーター・フィリップス氏のあと
10人のメンバーが客席を見ながら入場。
どのメンバーも微笑みを浮かべ
観客と無言の言葉を交わすような表情に好感。


ジョスカン・デプレ「喜びたまえ、キリストのみ母なる乙女」
最初から10人とは思えない充実した響き。
軽快なテンポは微塵も乱れず。
各パートで複数の人間が出していることに疑問を持つほど澄んだ音。
同じフレーズを少し遅れて演奏する箇所があるのですが、
その際にもこの音色の統一感は実に効果的でした。

軽やかかつ華やかなプロローグに
「期待は裏切られなかった!」
会場の熱が上がっているよう。


続いてのG.P.da.パレストリーナ
「教皇マルチェルスのミサ曲」

曲によって歌う人数を減らしたり戻したり。
先ほどのジョスカン・デプレとは違い
ゆったりめのテンポで名曲が歌われます。

テンポが遅くなってさらに感じるのはその和音の完璧さ。
ピッチが正確というだけでは無く、
聴き合う耳の良さ、精妙なバランス感覚、
さらに言えばベースが低音域でも胸に落ちず、
常に上方向へ明るく響く音を持っていること。
アルトの一人が男性でカウンターテナーの響きが
テナーとアルト、女声と男声を
見事に繋ぐ役割を果たしていたのではないか…と。

各パートを糸、
それによって作られる和音を織物に喩えたりしますが
タリスの和音、響きは織物どころではなく、
玉。
継ぎ目が全く見えない宝玉、完璧です。


和音が変化しても、その精度はずっと高いまま。
さらに感情表現の幅も抑えた品格あるもの。
福岡公演では前の座席のためにわからなかったのですが
兵庫公演ではA席でも正面真ん中の良い席だったため
演奏会開始わずか15分ほどでうつらうつらと舟を漕ぐ人が散見されました。
…その気持ち、わからないでもない。
あの完璧な和音、なにか別の波動が出ていた気がする。


人数が増減していたこと。
福岡公演ではBenedictusは確か4人で演奏されていたと思います。
その響きも素晴らしかったのですが、
歌わないバスのメンバーが、
ホールに響く音の行方を目で追いながら、
真摯に祈るような表情だったのが印象深かったです。


休憩20分後、アレグリミゼレーレ
17世紀前半に作曲されシスティーナ礼拝堂の秘曲だったが
14歳のモーツァルトが2回聞いただけで
楽譜に起こしたことでも有名。

ステージ上に5人、
福岡公演では不明でしたが
兵庫公演では3階席に5人。
(テノールが一人離れた場所に)

ステージ上から哀調を帯びた旋律が流れると
それに呼応するように空から音楽が降ってきて…。
テノールの軽やかな、やや叙唱的に歌われる音の美しさ。
高音域のソプラノの胸が締め付けられるような切なさ。
足元から寒気が立ち上り体を震わせるほど。

交互に歌われ、リフレインが生み出す効果、
高まり、最深部へ届こうとする心。
ホールがその瞬間聖堂に。

演奏後の客席はかなり沸いていました。



続いて1935年生まれの現代作曲家アルヴォ・ペルト
「息子はどこへ…(彼は誰々の息子だった)」
「ルカによる福音書」の
「神に至る系図」の言葉に基づいたテキストとのこと。
「ヨセフはエリの子、エリはマタトの子…」と
バスから始まる旋律が繰り返され、多様に変化する曲。
テンションの振幅が激しく、
切れ味鋭く演奏されたこの現代曲が
兵庫公演では一番面白く聴けました。

続いて教会の聖務日課で歌われる聖歌のひとつという
Nunc dimitis(主よ、今こそ御身のしもべを)の歌詞を
テキストにした3人の作曲家の作品が並びます。

ペルトの作品はやはり現代作品の印象が強いが
所々に馴染みのある(フォスター的?)旋律があり。

アンドレス・デ・トレンテスは16世紀のヴィクトリアと同時代の
スペイン盛期ルネサンス音楽家の一人だそう。
ペルトとは違って明るく、ひたすらに美しい音楽が魅了させます。
3曲並んだ同テキストの中では一番気に入りました。

この演奏会最後のパレストリーナの作品は
2重合唱のもの。
音に厚みがあり、組み合わされるリズムの緻密さがあり、
華麗にこの演奏会の最後を彩りました。




タリス・スコラーズは20年近く前にも
札幌での公演で聴いてはいたのですが、
ここまで素晴らしいとは…。
福岡公演の休憩中、その凄さに言葉が浮かばないほど。
耳が洗われ、今後聴く合唱の基準を上げられてしまいました。

2回目に聴いた兵庫公演では
ほんのわずか、声に疲れが見えたりしましたが
極めて高度に完成された演奏という印象は変わらず。

兵庫公演の後、たまたま訪れた喫茶店で読んだ雑誌に
プロフェッショナル中のプロであるバーテンダー、
尾崎浩司氏のこんな言葉が載っていました。
カクテルのマティーニについて。

 

「1杯につき100回はステアしますが、
 一晩で50杯作ったって平気です。
 ビリー・ホリディが魂を揺さぶる歌を自然体で歌うように、
 最高のものを力みなく提供するのが
 プロフェッショナルの仕事ですから。」

 

 


アマチュアのルックス・エテルナさんの
教皇マルチェルスのミサ曲の演奏も、
「演奏の一回性」、
すなわち、この瞬間が最後であり、
全てであるという演奏者の想いは
強烈に涙腺を刺激しましたが
タリス・スコラーズの「最高のものを力みなく提供する」という
プロフェッショナルとしての高い技術と安定感は
聴く者にとって余計な緊張を強いず
音楽そのものを純粋に味わうことに直結していました。


プロを学び、自らを伸ばし、
ただ1回の本番へ挑むアマチュア。
プロとして備えていなければいけない高い技術、矜持。
どちらも素晴らしいと感じました。



観客は年配の方が多い印象の演奏会でしたが、
兵庫公演では若い大学生らしいグループが
いくつも見かけられたのが嬉しかったです。
合唱はここまで達することができるんだと
実感する生の演奏に触れることは
きっと耳と心の財産になるでしょうから。 


単体の声ももちろん魅力あるものでしたが、
それらの人の声が合わさることで初めて生まれる、
合唱の魅力を改めて知りました。
力みが全く感じられない発声と優れた耳、
音の完成形のイメージなど、
成立させるには、実にさまざまな、
高いハードルがあるのでしょうね。


一音の美しさ、長三和音のシンプルな、
しかし、今まで聴いたことの無い至上の美しさ。
料理でも素材や腕に自信が無いと
無闇と味を重ねてしまうことがあります。
そんな方向とは全く逆に
一音を、その瞬間の音を、極限まで磨き上げた凄み。


シンプルな美しさを完成させるのは、
とてつもなく高い技術と強い意志が必要で、非常に困難なこと。
しかし、それゆえ実現できたときは本当に心を打つのだと。


タリス・スコラーズ、ただただ、美しかったです。

 

 

 

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