CANTUS ANIMAE+MODOKI ジョイントコンサート感想 前編




CANTUS ANIMAE(以下、CAと略します)の団員さんが
MODOKIを知ったのは2000年。

札幌の全国大会での演奏を聴いた時だったそうだ。
後にCA団員さんから
「佐賀にMODOKIという
 熱くて凄い演奏をする団体がある!」と話されたのを憶えている。

その後、コンクールの全国大会でお互いの演奏を聴き合い。
2010年佐賀にて、九州・本州の合唱団11団体が集う
コーラス・ガーデンにてCAとMODOKIはさらに親交を深めた。


佐賀と東京。
遠く離れた地でありながら
2011年東京でのジョイントコンサート。

2014年のMODOKI単独演奏会には雨森文也先生始め
CAの団員が大挙して佐賀まで聴きに行くまでに。

 

 


CAとMODOKI。
どちらも熱い演奏をする団体だが、
他に似ているとすれば、演奏へ懸ける集中力。
聴く者をも巻き込む厳しさだろうか。

それは聴く側を縛る厳しさではない。
「そこまで追い込まないと歌と認められないのか?」と思わせる
限界へ向かう姿の厳しさだ。
そこまでしないと彼ら彼女らには歌として感じられないのだ。
そう思わせる切なさと同じ厳しさだ。



2016年10月15日土曜日。
快晴の岐阜。
サラマンカホール午後2時の開演。


演奏前に雨森文也先生が登場し、
このジョイントコンサートが岐阜で開かれたいきさつをご説明。
東京と佐賀の中間地点である関西のホールが予約できず
雨森先生地元の岐阜、
「ぎふ秋の音楽祭」の中のイヴェントとして
開催されることになったそう。

さらにこれから演奏される「嫁ぐ娘に」は
三善晃先生が妹さんのために書かれた作品。
結婚を控えていた妹さんが
三善先生の自殺を止められたこと。
妹さんが亡くなり、
三善先生が70歳になってから
初めて告白なさったという。
「嫁ぐ娘に」は29歳の時に書かれたのに
40年以上もその事実を語られなかったそうだ。



60人ほどのMODOKIの入場。
山本啓之さんの指揮で。


「嫁ぐ娘に」
高田敏子:詩 三善晃:作曲


第1曲 「嫁ぐ日は近づき」のハミングから
深い祈りが込められているのを感じ。

はじまりの音から
九州大会、全国大会の時よりも
音の粒が際立っている印象。
このサラマンカホールが
大変音響の良いホールなのもあり、
煌めく「三善晃」の音が鳴っている。

コンクール曲以外の
「あなたの生まれたのは」
「時間はきらきらと」もそれぞれ
ヴォカリーズの美しさ、
華やかなリズムから生まれる幸福感と
演奏水準も落ちていない。

そして、コンクールと違い
「嫁ぐ娘」を全曲演奏する意味。
もちろん「戦いの日日」「かどで」以外の曲の
音楽としての幅広さを感じるというものもあるが
それ以上に、誰かとひとつになり、
遠い北の地で子をなし、
戦火を避け、時を経て、その子が育ち、
また誰かとひとつになる…。

いま存在する命は
とてつもなく広い世界と気の遠くなるような時間の中から
偶然に生まれてきたものだと思わせるような。

そんな輪廻の、
奇跡を思わせてしまう演奏だった。


最終曲「かどで」を聴くと
「窓を閉ざしても 木々の葉はささやきかけ」から
瞳がどうしてもにじんでくる。
現在の白いドレスの娘から、
過去の吹雪の夜には寝つけなかった赤ん坊にまで、
さよならを繰り返す万感の想い。

三善先生は、
母である高田敏子さんが
ご自分の娘さんへ送る詩に
(当時独身で男でもある自分が)
作曲することに不安だったと記すが、続けて


これは、高田さん母娘の真情の絆ではあろう、が、
高田さんの言葉がその「個」の情感を経る前にここに、
ひとりの人間の祈りがある。 
高田さんは、お嬢さんへの語りかけを通じてそれを綴ったのだ。

 


「ひとりの人間の祈り」


MODOKIの胸に迫る想いと歌と共に、
私も祈らずにはいられなかった。


そのほほえみを むすめよ
やさしいひとみ
愛のこころ
いつの日にも わすれることなく




 

 



第2ステージはCANTUS ANIMAE単独。
50人ほどのCA団員さんがステージに。
指揮は雨森文也先生。

このステージでは
5月の演奏会で委嘱初演された2作品の
改訂版を演奏されるとのこと。


最初は「石像の歌」

ライナー・マリア・リルケ:詩
森田花央里さん作曲



訳も森田さんの手によるもの。
ピアノは平林知子先生。

美しいピアノの前奏にヴォカリーズが絡む。
テキストの大意は、
海の中の石像と化した自分を
命と引き換えに愛し、
石から解き放ってくれる者は?

切実さを感じる音楽。
表現の核が私にはややわかりづらかったが、
ジャズピアニストでもある森田さん作曲ということもあり、
ピアノにそんなジャズ要素、クラシカルな部分が
継ぎ目なく、合唱と自然に音楽を奏でているのが
とても良かった。



次に演奏されたのは
「二つの祈りの音楽 混声合唱とピアノ連弾のための 」

宗左近:詩
松本望:作曲

ピアノは平林知子先生と野間春美先生。

演奏会前の直前練習で聴かせていただいてはいたものの
こうして客席で聴くのは初めて。

宗左近の詩集「縄文連祷」から2編は取られている。
1曲目の「夜ノ祈リ」は壮絶な内容のテキスト。


前奏の後
「埋メラレテイル死者タチノ」の入りから寒気が襲う。

たたみかけるような「敵 攻メテキマシタ」から
妻と娘が犯され殺され
激しく、執拗に、蹂躙されるさまが
何度も、何度も、声として叩きつけられる。

なぜ神は殺し合いを見過ごすのか
なぜ神は敵に仕返しするのを赦さないのか
なぜ神は
なぜ神は

いっそ人でなくなりたいと慟哭し、
祈りは牙を剝いて神に吼えることだと訴える。


繰り返される強く重い旋律が
敵の拳のごとく
四方八方から自分を打ち続ける。
「もう止めてくれ!」

そう願わずにいられないほどの緊迫感。
演奏が終わっても、
しばらく硬直している身体があった。

照明が弱くなったと錯覚するほど
暗く頑なになった心があった。


だからだろうか。
2曲目の「永遠の光」のはじまり。

Lux aeterna luceat eis Domine

本当に光が射すように目の前が明るくなるのを感じた。
ひとつの旋律がさまざまに、
あたたかさとやわらかさと、
そして深い祈りを込めて歌われる。

合間に奏でられるピアノの美しさはどうだろう。
気付くと涙腺が緩んでいる。

 

 



人の生みうる唯一つの無限
              それは祈り




これは、「祈り」という行為を演奏者それぞれが、
どう声、音に表せるかが問われる作品ではないだろうか。


1曲目とは逆に体が解放される思いの中、
浮かんできた感情を言葉にすると
絶望にあっても、いや、
絶望の中だからこそ祈らずにはいられない人間という存在。
そしてその存在が受容され、肯定されている実感・・・。


初演の際、演奏が終わり、
ピアノを弾かれていた作曲者の松本望さんが
あふれる涙をぬぐってもぬぐっても
抑えられない状態になったそうだ。

それも実感できる演奏だった。
影と光。
三善先生が仰った
「絶望を胎生としない愛を信じない」

その言葉を作品にしたような2曲。

単に美しい、涙を誘われる曲というだけではなく、
一見シンプルな作品の中に潜む深い祈りを、
演奏を通して多くの人へ、
なにより自分自身へ問うて欲しいと思う。




ここで休憩。
周りの人たちが溜まった息を長くはくように
身体をゆるめていたのが印象的だった。

 

 

 

 

(後編へ続きます)