お母さんが歌う理由。

 





ツイッターで見かけたこの記事。
25歳の青年が
合唱をされているお母さんの練習場所を訪ねる、
というもの。

 

 



ほぼ日刊イトイ新聞の塾の成果のようですが
http://www.1101.com/juku/index.html
これがまた素晴らしいんです!
全5回をあっという間に読み終わってしまいました。

「なぜ歌うのか? なぜ練習するのか?」
そんな根本的な疑問のほか、
著者のなかむらさんは
一般の合唱団を経験したことが無いため
こんなことに驚くのか!…と逆に驚いてしまう(笑)。

 


そんなに年の差が離れていることを、
全く気にすることなくみんなが親しい言葉遣いで、
あだ名や、名前で呼び合ったりしていて。
だからこそ、厳しい指摘も飛んでいて。


それから夜の22時まで、はさんだ休憩はたったの2回。


そうか~、そうだよね。
離れた年の人をあだ名で呼ぶのに違和感とか、
4時間の練習で休憩が
「たったの2回」と思うのが普通だよね…。



練習を見学し、なかむらさんの問いも本質を捉え。
そしてお母さんの答えも間に合わせではなく、
しっかりと考えて出されたもの。
…名言が続きます。

 


音楽は心が最初にあって、
それを伝えるために技術的な表現をつきつめていく。
技術と、心は密接に関係しているんだなぁ



いろんな人たちが集まって
曲を作るっていうのが面白いよね。
人が複雑に重なって、音楽が生まれてる気がする。



やっぱり歌うってことはその人にとって、
青春がずーっと続いているってことなんじゃないかと思うね。
いろんな音楽を、いままで聴いて生きてきてるからね。

人生が重なっていったものを表現していくものだと思う。
だから歌ったり、聴いたりしながら、
人生を辿っているというか。



音楽ってやっぱり
日頃思っていることが弾けるものなんだと、
最近はよく思うなぁ。



自分たちが持っている以上のことはできない。
じゃあ、何が表現できるかって、
心をこめて歌うために
どれだけの練習をしてきたかって
いうことじゃないかって。



何度も言うけど、その音楽の裏には
やっぱり人生があってさ。
人生には、家族や仕事があるよね。
だから、いままでの苦労とかが、
ぜんぶ肥やしになってる気がする。
自分の人生が反映されるから、
音楽が生きがいになっていくんじゃないかって思うね。
それは聴く人も歌う人も一緒だと思うよ。

 

 


見学していたなかむらさんは
練習の最後に合唱団の輪へ入り、いっしょに歌います。

 


あぁ、楽しい。
みんなで歌うって、思っていたよりずっと楽しい。
ぼくの声に、いろんな人の声がハモってくれてる気がする。
だから、ここに居てもいいと言ってもらってる気もする。
カラオケボックスで味わう楽しさとは、また違った、
みんなで音楽を作っていることに興奮してくる。


「ここに居てもいいと言ってもらってる気もする」

この言葉から、
作曲家:三善晃先生のお話で
「自閉症とか分裂症とかの小さい子供たちの集団に、
 知り合いの教育者が行って、合唱を教えた」時の
話を思い出しました。

 

 

2、3日したら、一人の女の子から
「このあいだはとてもよかった。」という手紙が来た。
「みんながいたからよかった。
 みんながいたから私がいた。
 だからよかった。ありがとう。」と。
つまり
「みんながいて初めて、私がいた、ということがわかった」。
私の証が見つかった。
そのことが「すごくうれしい」とその子は言ったんですね。
「自分が自分として居る」ということは
「自分で証明できない」。
でも「みんながいなければ」「自分も無に」なってしまう。
「みんな」がいると
「じぶん」の「分」も引き受けることができて、
かえって気が落ち着くというか、
軽くなるというのか、そういう境地なんだろう。

http://www.jazztokyo.com/column/editrial02/v67_index.html
 

 



お母さんが団員の土曜音泉倶楽部は
http://horiient.exblog.jp/26374431/
兵庫県の合唱団ボイスフィールドのOBさんたちで
結成された団体ということ。


いつか演奏を聴いてみたいですね。
なかむらさん、そしてお母さん、
素敵な記事をありがとうございました。