「コンクール出場団体あれやこれや:出張版2011」(その8)

8.山形県・東北支部代表
鶴岡土曜会混声合唱団
(混声50名・2年連続出場)



今年で創立60年の鶴岡土曜会!おめでとうございます。
昨年の鶴岡土曜会混声合唱団の演奏は
課題曲G1は柔らかな優しさとスムーズなひとつの流れが魅力的で
自由曲のピツエッティのレクイエムは
細部のニュアンスが考えられていた繊細な演奏でした。
毎年真摯に、誠実に楽曲へ向かう団体という印象があります。


今年の課題曲はG1のVaet
自由曲は一般Aで合唱団まいも選曲していた
混声合唱とピアノのための「その日 -August 6-」
谷川俊太郎:詩  三善晃:作曲)


マネージャーの阿部淳二さんからメッセージをいただきました。

さて、今回の自由曲についてですが、私たちはここ数年、
三善晃先生の作品について取り組むことが多く
(嫁ぐ娘に、五つの童画)、
その流れの中に、「その日 -August 6-」が
ある意味自然なかたちで組み込まれました。
この曲にしようと決まったのは、昨年の暮れのことです。


ある程度練習も進み、少しは曲になりかけてきたころ、
大震災が起こりました。
私たちが住む山形県では、
その被害は小さいものだったと思いますが、
合唱活動については練習場所の確保が
(震災後の管理上の問題などから)難しくなったり、
ガソリン不足があったり、
加えて家族と一緒にいる時間を削ることに対する
不安があったり、そういう理由から
少しのあいだ活動を停止せざるを得ませんでした。


それでも徐々に練習を再開させ、また「その日」に戻ってみると、
震災前とはまったく違う
「ああ、これは大変な曲を歌うことになった」
という感覚をおぼえました。


「なぜこの曲を選んだの?」と思われるに決まっています。
「いや、実は以前から決めてまして…」と言っても、
何かイメージとして「原爆」と「震災」とがリンクしてしまうのは
自然な感覚かもしれません。


また、曲中「その日 私はそこにいなかった」というフレーズが
何度も出てきて、
これは震災による甚大な被害からは少し距離のある
私たちの心情に似ています。
奇妙な巡り合わせになんとも言えない気持ちになりました。


別の曲を選びなおすことで、
そのなんとも言えない重圧から逃れることもできたのかもしれませんが
「では、なぜ歌わないことにしたのか」という
問いに対する答えも明確には見つかりません。
そしてそのまま、いわば「腹をくくって歌い続ける」ことになります。


コンクールの山形県大会では、
いわゆる「自由曲」として歌い終えた感じがしましたが、
東北支部大会での演奏ではやはりそうはいかなかったように
(個人的には)感じています。
震災で、特に被害の大きかった地域の方が
目の前にいるかもしれない。
私たちの歌をどのように聴いてくれるのか、
この選曲を「狙ったな」と思われてしまうのか、そうだとして、
その中で私たちはどのように歌えるのか。
いつもとは違う感覚、違う緊張感がありました。


全国の舞台でもう一度この歌を歌うことになりましたが、
今度は「被災地の東北の人が歌う」という目で
見られるのかもしれません。
それが私たちの感覚と多少異なっていても、
それをそのまま受け流して、
自分たちなりの「その日」を歌うしかないのかなと思っています。


阿部さん、ありがとうございました。
今回の震災について何かを語ろうとするとき、
私も未だに逡巡があります。
どんなに情報を集めても、所詮私は当事者ではないわけですし、
安易な同情、共感が許されるものなのか、という疑問もあります。
(本当に「August 6」での
 「その日私はそこにいなかった」に通じますね…)
また、楽曲に対し、メッセージ性を付加することについても
自分の行為ながら疑問を感じる部分があります。
「音楽は音楽のまま存在するだけで良いのでは?」、と。


それでも、そういった私の逡巡を、どこかで共有しながら
ご自身と楽曲に対する気持ちを丁寧に説明されようとする
阿部さんの心に嬉しさと安堵の気持ちを抱きました。


「その日 -August 6-」は声とピアノで原爆の恐ろしさ、
その記憶の風化を鋭く表している曲ですが、
最後に一転して優しく慰めるように希望と願いが歌われます。
鶴岡土曜会の演奏を聴き終わった後、
客席にいる私たちに希望が残りますように。


阿部さんからは写真も送っていただきました。




「スプリングコンサート」という催しを
毎年春におこなっているのですが、
そのときのものをお送りします。

阿部さん、改めてありがとうございました!

私はただ信じるしかない。
怒りと痛みと悲しみの土壌にも
喜びは芽生えると


谷川俊太郎 「その日 -August 6-」より