スウェーデン放送合唱団倉敷公演感想 その1

2012年6月21日(木) 雨の倉敷。18時40分。





市民会館前は制服の高校生たちでごった返していた。
倉敷に合唱へ興味がある学生がこんなにいるんだろうか…。
おそらく招待か、格安の学生券だろうが、良いことだと思う。
合唱に興味を持つ未来の趣味人を育てる主催者に感謝しなければならないな。



前回の来日公演は2010年の同じく6月。
東京オペラシティへ聴きに行き
私はその精緻な響きに感動したのだが
意欲的な選曲に比べ練習不足が散見され
周りの評価は賛否両論だった印象がある。
今日の演奏はどうだろうか・・・。


調べてみると今回の日本公演は
16日:水戸
17日:鹿児島
19日:東京
20日:松本
そして21日の今日が倉敷だ。大丈夫か。
さらに明日は名古屋だ。大丈夫かー?



1階席でも後ろの席には空席が目立つホール内。ちょっと寂しい。
19時を少し過ぎた頃、
椅子を置いた(ちなみに一度も座らず楽譜置き?用)ステージ両側から
女声16人男声17人のスウェーデン放送合唱団の入場だ。
前列に女声、後列に男声が1列に並ぶ。
指揮は長身のペーター・ダイクストラ氏。


さて、この演奏会。
自分には日本人と海外の合唱、
プロフェッショナルとアマチュアの違いなどを
いろいろ意識する良い機会となった。
感想に交えながら書いていきたい。



最初の曲はブラームスの5つの歌 作品104
最初こそ奥まった響きに聴こえたが
すぐにその一体となった合唱の響きに魅了される。
どのパートも素晴らしいが特にソプラノ!
軽く明るいが、芯があり輝いている。
さらにどのフレーズの始まりも唐突ではなく
かすかに流れていた風に乗り歌い出した…という印象。
こういう歌唱が音楽に横の流れを生み出している。
フレーズの終わりの処理も実に繊細で美しい。


音楽自体はブラームス独特の陰影をそれほど濃くはせず
流れを止めない、軽やかなもの。
そしてここである作曲家氏の言葉を思い出したのだが


「オーケストラの指揮者は長大なマーラーの交響曲などで
 1曲を通した音楽の起伏を勉強する」というもの。


それに対して合唱は長くても10数分の1曲を演奏する機会が多く、
「全体を通した音楽の起伏」への意識は低いのではないか、と。
今回の指揮者:ダイクストラ氏は数々のオーケストラも指揮することから
その「1曲全体を通した音楽の起伏」を演奏から考えることになった。


加えて、日本人の合唱、特にコンクールでの「詰め込む演奏」。
宝塚国際室内合唱コンクールで海外団体と比較するとわかりやすいのだが
日本人の演奏は最初から最後まで
高いテンション、様々な表現を「詰め込む」傾向があるように思う。


「一音入魂!」は良いことかもしれないが、
しかし曲の最初から最後まで高いテンションで演奏するということは
相対的に音楽本来の山場を低くすることに繋がるのでは?
さらに本来要求されていないはずの音楽へ
耳を惹きつけるための集中度の高い様々な表現を加えることは
音楽のあるべき姿を失っているのではないだろうか?



ただ、日本人の特性、
コンクールという短い演奏時間という特殊な場を除いても、
素材本来の良さが出ていない料理へ色々な調味料を加えたくなるように、
音楽そのものに語らせるという行為が成り立つのは
非常に難しいことかもしれない。


正確な音程、優れた歌唱技術、適切な解釈があってこその
「音楽そのものに語らせる」なのだろう。



スウェーデン放送合唱団の演奏、
特に5つの歌最終曲の「秋に」では
さりげない導入部からのなめらかな音楽、
そして最後の圧倒的な音圧と感情の山場に
ダイクストラ氏の音楽を観る視点の高さを感じられ
納得の心が湧いた表現だった。




(続きます)