小説「ヒトリコ」

 

 

「合唱」を主軸にした小説を読みました。



小学5年生のとき金魚を殺したという濡れ衣を着せられ、
それ以来孤立し、みんなに属さない
「ヒトリコ」となった日都子(ひとこ)。
時が進み「みんなで」を押し付けられる
中学校でのクラス合唱のサブ伴奏者に選ばれるが・・・。
小学館文庫小説賞受賞作。

 

 

ヒトリコ

ヒトリコ

 

 
額賀澪「ヒトリコ」。
合唱曲「心の瞳」「怪獣のバラード」そして「信じる」にも
主人公:日都子の置かれている孤独な状況ゆえ
極めてシニカルな視線が向けられます。


「心の瞳」なら

 

何が「絆」だ。何が「変わらない」だ。

なんて、くだらないんだ。

 

 

 

「怪獣のバラード」は好きになれない歌だったとし、


孤独な可哀想な怪獣。
まるで何者かが怪獣を独りぼっちにして、
孤独にしているかのように聞こえる。
怪獣が自発的に砂漠を出るまで、
誰一人怪獣のもとへ行かなかった。
それを、責められているみたいだ。むかつく歌だ。

 


高校生になった日都子が「信じる」に触れ

 

いかにも中学生のための歌、という歌詞だった。
信じることに理由はいらないなんて、
そんな詭弁を受け入れてもらえるのは
中学生が限度な気がする。
もしかしたら、もう遅いのかも。

 

 

あんまりだ~!と思うと同時に、
いかにも思春期っぽい感想でニヤリ。

そして「みんなで」を強制するクラス合唱の衝撃の結末から
どうなる?!と不安になりましたが、
最後は世界が反転するように
合唱が、日都子や他の登場人物を良いところへ着地させ、
胸をなでおろすことに(笑)。

 

柔らかくて優しい伴奏で「信じる」は始まる。
夜明けのようなメロディだ。
朝がやってくる。朝日が近づいてくる。

 

 

「信じる」も「怪獣のバラード」もこの本で改めて触れると
「良い曲だ…!」と新鮮に感じてしまいます。


素直な子供時代から、思春期のシニカルな時を経て、
さらに時が過ぎて素直さとシニカルの間で揺れるのが
大人になることかもなあ、などと。

「合わせること」「同じであること」への強制など
合唱の「負」の面も語っている本作ですが
「ヒトリコ」としての本質は変わらず、
周囲へ安易に合わせず、
独立した存在として生きている日都子が
また合唱に関わり、自分を輝かせる姿がまぶしい。


集団の表現としての合唱ですが、
自分を殺し、浅く合わせただけの合唱はつまらない。
日都子や他の登場人物、
それぞれの存在が生きている合唱は
きっと魅力的だろうなあと思うのです。