1987年の冬、全国大会上位入賞団体の番組がNHKラジオで放送された。
初めて聴く名、「千葉大学合唱団」。
衝撃だった。
単純な技術の巧拙とは違う次元、大げさに言えば、そこに世界があった。
「夜のうた」という題、暗闇の底から祈るような、目を閉じた瞬間ふっと香水を嗅ぐような。
高みに向かうと思えばたゆたい、ひそやかに、そしてときに華やかに奏でられるピアノと絡む合唱。
変幻自在に繰り広げられるフランス音楽に、どこか大人の匂いも感じ。
「こんな合唱曲があるのか!」と札幌の高校生は驚き、何度も繰り返し聴き込んだ。
千葉大学合唱団、栗山文昭の名前は、そこで刻み込まれた。
今回、この「珠玉のハーモニー」企画が「平成(+α)の大学職場一般部門」となっているのは、私が「どうしても昭和の千葉大学合唱団の演奏を入れて欲しい!」とワガママを言ったからである。
それが無かったらブレーンさんも「平成!」と(+α)無しで銘打てたわけである。
ブレーン担当者:原さんへのメールで「私は最低、87年の千葉大学の自由曲が残れば良いので!それさえ残っていれば、あとはぜんぱくさん推しの演奏ばかりでも文句は言いません!」とまで書いた。
(その後、ぜんぱくさん推しの演奏に文句はさんざん言った。ごめんなさい)
「夜のうた(Le chant de la nuit)Op.120」は、1870年フランス生まれの作曲家:Florent Schmitt(フローラン・シュミット)が1951年に作曲された作品。
副題に「Ode à Frédéric Chopin,op.120(フリードリック ショパンに寄すオード)」と付けられたように、ショパン没後100年を記念して作曲されたものであり、ショパン:ノクターン第13番ハ短調Op.48-1からの引用が随所に認められる。
作詩はあの有名な哲学者:Frédéric Nietzsche(フリードリヒ・ニーチェ)の言葉を、伝記作家:Guy de Pourtalès(ギー・ド・プルタレス)がフランス語へ訳したもの。
フランス語に堪能ではない自分には意味がつかめず。
「珠玉のハーモニー」発売をきっかけに合唱団響団員:高田さんから当時、千葉大学合唱団に在団されていた方をご紹介していただいた。
高田さんに多大なる感謝を!
元・千葉大学合唱団員「ちよ」さんによると、この詩はニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」第2部の冒頭なのだという。
夜はきた。すべてのほとばしる泉はいまその声を高めて語る。わたしの魂もまた、ほとばしる泉である。
夜はきた。すべての愛する者の歌はいまようやく目ざめる。わたしの魂もまた愛する者の歌である。
鎮まることのない、鎮めることもできないものが、わたしのなかにあって、声をあげようとする。愛したい、とはげしく求める念がわたしのなかにあって、それ自身が愛のことばとなる。わたしは光なのだ。夜であればいいのに! この身が光を放ち、光をめぐらしているということ、これが私の孤独なのだ。
(「ツァラトゥストラはこう言った」より 氷上英廣 訳)
※ちよさんから、当時の対訳・発音資料もお送りいただきました。
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この曲を想うと、艶やかで真っ暗な夜の闇と銀色のしぶきをほとばしらせている噴水が脳裏に浮かびます。
歌詞がフランス語。
その発音が難しくてとても苦労しました。
特に覚えているのがJaillisantes (噴出する)という単語。
フランス語特有の鼻にかかる鼻母音、空気を含ませた摩擦音とともに発音する半母音。
それを噴水のイメージで。
やってもやってもOKがもらえなくて・・・。
フランス語をご指導くださったのは、当時千葉大で一般教養のフランス語を担当していたガブリエル=メランベルジェ先生。
たまたまお願いして来ていただいたのですが、実は音楽にとても理解があり、歌って美しく聞こえるフランス語を根気よくご指導くださる、私達には大正解の先生でした。
栗山先生ともすっかり意気投合して、その後合唱団OMPでもご指導いただきました。
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同じく、当時在団されていた中嶋美穂さんによると
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フランス語には初挑戦で、メランベルジェ先生にいらしていただいてフランス語の特訓をしました。
メラン先生のパワフルかつ笑いの絶えないレッスンで、私達はフランス語の作品がますます好きになりました。
栗山先生もフランス語が千葉大に合っていると思われたのでしょう。
その後も数年間はフランス語の作品が続いたと記憶しています。
ニーチェの詩は難解で、シュミットの音楽も夜のように正体無い感じで、初めはとっつきにくかった印象があります。
栗山先生からは、(もともとよく言われていたのですが)「お前らはみんなグンゼのパンツを履いている!」と揶揄され、表現の稚拙さを思い知らされながら悪戦苦闘したことを覚えています。
ピアノの田中瑤子先生が見るに見かねて、私達4年生を呼んで、優しくかつ厳しい言葉で𠮟咤し励ましてくださいました。
瑤子先生が真摯に不甲斐ない若者達と向かい合ってくださったことに感謝しています。
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「グンゼのパンツ」!
なるほど、演奏から当時感じた「大人の匂い」は栗山先生のこういう言葉からもわかります。
そして名ピアニスト:田中瑤子先生のエピソード。
中嶋さんが語られたように、団員さんへ対し、厳しくも優しいお人柄が感じられますが。
ふたたび、ちよさんによると
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瑤子先生。
そうなんです、叱咤激励、容赦なく(笑)。
学生にとっては、実はちょっと怖い。
でもとっても可愛らしい一面もあり、、、。
私たちにとっても、栗山先生にとっても単にピアニストにとどまらない大きな存在だったと思います。
千葉大は、当時ぐんぐん力をつけていましたが、吉村信良先生率いる王者、京都産業大学グリークラブさんに一歩及ばず長らく銀賞に甘んじていました。
東京(関東)で開かれる40回記念大会。
大会実行委員長は我らが栗山先生。
ピアニストに田中瑤子先生を擁し、いつにもまして、今年こそはという思いが強かったと思います。
そんな中で、大会前日、実行委員長で多忙を極めた栗山先生が倒れ、東京医科大へ救急搬送されたのです。
先生の容態はどうなのか。
栗山先生の代わりに学指揮が振ることになるかも。
最後の仕上げとなるべき練習が終始不安で落ち着かないまま終了しました。
そんな私たちに向かって瑤子先生がおっしゃいました。
「栗山先生は大丈夫。きっと来ます。でも、万一来られないとしても 私達だけでがんばりましょう。」
いつも、静かに陰で支えてくださっていた瑤子先生が、この時は前に出て私たちを奮い立たせてくださいました。
その言葉がとても心強くありがたかったことを覚えています。
本番当日。
栗山先生は奇跡的にいらっしゃいました。
一緒に舞台に立てているというだけで幸せ。
多分満足のいく演奏ができたと思うのですが、私の記憶の中ではなぜか前日のことばかりで・・・。
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あの演奏にそんなエピソードがあったとは!
ブレーンさんHPの1987年第40回大会のプログラムによれば。
栗山先生は大学の部:千葉大学合唱団さんの他に、次の日の一般の部A部門で「宇都宮ジンガメルアカデミー」さん、一般の部B部門で「合唱団OMP」さんと計3団体にご出場。
その上、大会の実行委員長を務められたのでしたら、さぞかし激務だったことでしょう。
ちなみに宇都宮ジンガメルアカデミーさんは20秒オーバーで失格。
OMPさんはコンクール大賞を受賞されました。
コンクール大賞も当時にしかない賞ですね。
当時は高校部門も同じ場所での連日開催だったので、高校・大学・職場・一般の全部門でもっとも優れた団体へ贈られる賞でした。
ちよさんのお話はこう続きます。
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そして、また金には手が届きませんでした。
でもそんなことは小さなことですね。
千葉大が初めて金賞を受賞するのは、その3年後です。
※パートリーダーさんのお言葉。
演奏へ懸ける意気込みが伝わってきます。
「当時はガリ版を切って輪転機で刷って作ってました」とのこと。
団員数は80人から90人くらいだったそう。
ひとつおまけ。
瑤子先生が大会を通じての(サプライズの?)特別賞「フレデリック・ショパン賞」を受賞されました。
瑤子先生は一般の部B部門でコンクール大賞を受賞した合唱団OMPでも弾いていらっしゃいます。
(実は私もこの時、OMPの一員で出演しました)
その時の賞の名前が OMPの演奏した「海」ではなく、千葉大の「夜のうた」に由来している(と思われる)ことがちょっと誇らしかったりして・・・。
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当時は金賞団体が1団体だけだったのですよね。
さらにそんな特別賞があったとは。
ピアニストにも光を与える賞、再開すれば良いのになあ。
ちよさん、中嶋さん、大変貴重なエピソードを本当にありがとうございました。
いま改めて「夜のうた」楽譜を眺めながら聴くと、自在なテンポ感と、ぜんぱくさんが書かれたように、栗山先生の優れた構成力と音楽性が感じられます。
その音楽の説得力、音楽だけではなく大学生の年齢を超え「大人」を匂わせる世界に、33年前と変わらず心が震えました。
千葉大学合唱団さんとはその後、「本家マザーグースのうた」CDを回数が忘れるほど聴き返し。
(黒テントの役者さんが出演されたこのCDは、音楽劇としても実に楽しく秀逸なもの。現在も十分聴く価値があるCDだと思います)
音楽監督の座を栗山先生から佐藤洋人先生に譲られての現在は、YouTubeで演奏を楽しませていただいています。
千葉大学合唱団さんは演奏にも影響されましたが、栗山先生のお言葉も心に強く残っていて。
この記事の題「歌のある空間を求めて」は1988年ハーモニー誌春号で、千葉大学合唱団さんを取材された記事のものを使わせていただきました。
記事中の栗山先生のお言葉。
「たとえば好きな子の家に電話をしたとして、いくら待っても相手が出ないとする。
その取り上げられなかった受話器と、どこかにいる相手との間にある空間、そこに歌があるんだよ。
そういう歌のある空間を一人一人が持ってもらいたいんだな」
携帯電話が普及した今、栗山先生の言葉は力を失ってしまったか? いや、そんなことは決して無いはず。
1987年、ラジオから録音したカセットテープに手書きで「夜のうた 千葉大学合唱団」と記してから33年。
今、手元にはその団体と曲名が、活字で記されたCDがある。
この感慨と喜びは到底伝えきれない。
札幌と千葉、1987年と2020年という離れた空間と時間。
栗山先生が仰られたように、確かにそこには「歌」があったと思う。
想いかえせばそれは、とても幸せなものだったと。
千葉大学合唱団さんの演奏は「珠玉のハーモニーVol.6」に収録されています。