観客賞スポットライト 室内合唱の部 その4

 

 

大曽根浦漁港(尾鷲市)
提供:三重フォトギャラリー

 

 

今回は愛媛で活動を続けている混声合唱団さんをご紹介します。

 


8.愛媛県・四国支部代表

Chorsal《コールサル》

https://twitter.com/chorsal

(混声18名・8年ぶりの出場・第61回大会以来3回目の出場)

 

8年前は自由曲に千原英喜先生「おらしょII」を演奏され
観客賞第4位。

 

最後のかくれキリシタン、見つかったら命が無い…
その緊張感がピアニッシモの表現に表れていた!


全体的に技術が先走らず、
「表現のための技術」
「やりたいのはコレなんだな!」というのが
ひしひしと伝わる、実に気持ちの良い演奏でした。

……と、とても好評でした。

 

今回はコールサル指揮者:大村善博さんことぜんぱくさんにお話を伺いました。
お住まいの尾道から倉敷まで来ていただいてとても感謝しております。

 

文吾(以下、文)
コールサルさん、
8年ぶりの全国出場おめでとうございます!

 

ありがとうございます。
8年ぶりと言っても、全国出場だけが目的じゃ無く、
マラソンの先頭集団にいることが大事だと思って。
今年も四国大会でやり切った感じがあり
結果はあまり気にしなかったんだよね。

 

 はー、続けていると
  そういう心持ちになるもんなんですねえ……。

 

いや、ほとんどの人はならないんじゃない?(笑)
実は、演奏会が来年の2月12日にあるんですよ。
けっこう大変だから四国大会が終わったら
頑張らなきゃね、というところに
全国がボンッ!と入ってきたので。
こないだ久しぶりにコンクール曲をやったら
「おィ~~~?!」
これはヤバイぞ!と。

 

 (小声で)みなさん、これは10月18日の録音です!

 

(笑)。
現時点では時間を空けすぎてどうしようかなと。
乞うご期待です!

 

 選曲について伺いたいんですが。
コールサルさんの今回の演奏曲は
●課題曲
G2 Es ist verrathen(「Spanisches Liederspiel」から)
Robert Schumann 曲

●自由曲
「5.If I hear a voice」
(無伴奏混声合唱のための「Faraway」より)
作詞:木島 始 作曲:信長貴富
「3.唄」
(混声合唱とピアノのための「もし鳥だったなら」より)
作詞:立原道造 作曲:信長貴富
信長先生で揃えた自由曲。
「もし鳥だったなら」は信長先生初期の作品ですね。

 

まず自由曲に「唄」をやりたいと思ったんだよね。
それだけでは足りない気がしたから
もう1曲に悩んだんだけど。
「唄」としっくりくる作品は無いものか。
「もし鳥だったなら」の他の曲は
時間的に厳しいし。

6年前に合唱団まいさんが「唄」を演奏したときは
三善先生の「やじろべえ」を持ってきていて。
もちろん三善先生の作品は凄くしっかりしているし
何を選んでも大丈夫なんだろうけど
特に関連性は無いしアラカルト的に選びたくなかった。
だから信長さんの作品からずーっと探しててね。
「Faraway」の1,4で春こんに出たときがあって。
楽譜を見直したら、やったことのない
「5.If I hear a voice」の詩が
「唄」に上手く引っ付きそうだ。
曲も上手く繋がりそうだという直感で選びました。

 


 「If I hear a voice」
  もしもはっきり私むけの声を聞くなら
  はるか山の木々のさわさわ鳴る振るえのなかに(後略)
  「聞く」という行為から「唄」に繋がるわけですね。
  ではそもそも「唄」を選ばれた理由は?

 


6年前に合唱団まいさんが
素晴らしい演奏をされたことは大きいんだけど
それだけでは自分の強い動機にはなり得なかった。
清水敬一先生の「合唱指揮者という生き方」という本で

 

三善晃先生がNHK東京児童合唱団へ
「音楽は、皆さんが演奏した音の中で、
 聴いている人たちが、
 生きられなければならないのです」
とおっしゃったと書かれているんだね。
そこで清水先生は悩むわけ。
自分が聞き間違えて
「音楽が、聴いている人たちの中で、
生きられなければならない」の方が
意味を取りやすいんじゃないか。
悩み、20年経って三善先生に質問することにして。
最初は覚えているわけないじゃない!
と笑った三善先生もしつこく清水先生が
「音楽が、聴いている人たちの中で、
生きられなければならない」と
「音楽の中で、聴いている人たちが、
 生きられなければならない」
どちらだと思いますかと尋ねると
「私が申し上げたとすれば、
間違いなく後者です」きっぱり答えられたと。

 


文 「音楽の中で、聴いている人たちが、
  生きられなければならない」
  それが「唄」とどう繋がるんでしょうか?

 


清水先生の本には続いて。

私は聴き手として音楽の中で、
ああ、私は生きられる」と思うときがあります。
このことばは、信長貴富さんの混声合唱曲
《もし鳥だったなら》のIII楽章によって知った
立原道造の最晩年の詩、
『唄』の中のことばでもあります。
 聴き手が生きられなければならない、ということばは、
今も私の中でこだましています。
音楽家として生きていく私の、
これからを磨き続けてくれる大切な路標です。

……と書かれているんだね。
このご時世で合唱をする意味はなんだろうと
考えた時に「唄」が入ってきた。

 


 「唄」は立原道造が病気の中、
  明らかに命を縮める東北旅行で詠んだ
  「ああ、私は生きられる」というものですね。

 


そうだね。
何かしら自分なりの思いを語るに
ふさわしい内容。
この詩、この音楽の中で
生きていける演奏をしたいなと。
・・・何か、上手い下手や勝ち負けじゃ無く、
記憶に残る演奏をしたいね。
もちろん上手いに越したことは無いけれど、
四国にこういう団体、音楽がある、
いろんな音楽の多様性を示すのが大事だと思って。
聴く人が楽しんで幸せな気持ちになって欲しい。

 


 コールサルさんの音楽の中で
  生きていけると実感できたら素敵ですね。

 


そうなると良いけどね!
あと師匠の辻正行先生が乗れなかったステージなんだよ、
この津の全国大会は。

 


 2003年の大久保混声合唱団さんが
 「ラプソディー・イン・チカマツ」を
 演奏されたときですね。

 

東京都大会は振られたんだけど、
11月1日に亡くなられたので全国大会は行けなかった。
だから曲も考えていることも辻先生とは全然違うんだけど、
亡き師匠の立てなかったステージに立つ。
その一点に対しては感慨深い。

師匠の話が出たけど、
コンクールに参加するのは
勝ち負けじゃなく、
自分を越えようとしているから。
みんなに言っているのは
「自分が出来ないことを
 出来るようになりたい」って。
だから自分の可能性を広げるために
出ているというのが多分にあるな。

 


 辻先生もどこかでぜんぱくさんを
 ご覧になっているかもしれませんね。

 


だと良いね。
・・・うん、目標は過去の自分を越えること、ですね。

 


 ぜんぱくさん、ありがとうございました!

 

 

 

 

7月の愛媛県コンクール後の撮影とのこと。

 

 

(室内合唱の部 最終回に続きます)