ネットで誰でも閲覧可能な論文に凄いものがありました。
《三善晃をテーマにした論文が必読!》
日本大学大学院生・宮下玲衣さんによる論文『三善晃の記譜法―器楽作品における特殊な記譜法と演奏解釈を中心に―』がネットで公開されています。
https://nihon-u.repo.nii.ac.jp/records/2002148
声楽家の松平敬氏が「三善晃に興味のある人はもちろん、記譜そのもののあり方に興味のある方も必読の、素晴らしい論文。」と書かれていましたが。
自分、記譜にそんな興味も知識も無いしな・・・と思いながら読み始めたところ、夢中になりました!
いや本当に必読ですよ!!
「第五章 三善晃と深い交流のあった音楽家の見解」だけでも読んで欲しいです。
特に弟子である石島正博氏、新垣隆氏、鈴木輝昭氏等へのインタビュー、師として三善先生が音楽をどのように書き表わそうとし、演奏家へ望んだか。
鈴木輝昭氏へのインタビューで
(三善先生は)合唱作品における言葉のイントネーションには厳しかった。
日本語のイントネーションに関して無頓着な作曲をしていった時に一度大変立腹した時があって一喝された。
それそのものが結局言語に属しているというのが三善のずっと言い続けてきたことだ。つまりヴァイオリンのソロだろうとピアノソナタであろうと日本人が書く以上は母体にあるものが日本語でなければならないということだ。そうでなければ無国籍な音楽になってしまう。
日本語の歌曲を書くからということや日本語で合唱曲を書くからという表面的な問題ではない。血の中に流れる律動感というのか。もちろん日本の伝統芸能やそういったものを勉強するということも一つの手段かもしれない。ただそれは、日本人として生きていれば自ずから、先祖代々伝わったそういう美意識にしても呼吸感にしても、その血の中にそれらが当然あるわけだ。それが在るべき生き方をしていれば自ずと表面に出てくるという部分もあるとはもちろん思うが、それはやはり常に何がしかは意識してなければいけないと思う。三善はやはりそのことは非常に強く言ってらっしゃったと思う。
……などのお言葉はとても響きます。
他にも石島正博氏の
先生はソルフェージュが正確であるというだけの演奏を好まれなかったように思う。音の物理的なエネルギーと精神的、身体的なエネルギーとが一致していることを望まれていたように思う。
ふたたび鈴木輝昭氏。
基本的には演奏家を信頼しているというか作品を預けるという、演奏家から出てくる音楽を見守るという、そのような姿勢だったと思う。あまりにも方向性が違う時は一言発言した。それは決して否定的なことではなく、よりイマジネーションを喚起するような言葉だった。その言葉から演奏家がイメージをし、何か音楽の行き先を見つけていくような、そのような感じのレッスンや指導だったと思う。
イチ合唱好きとしても、作品の解釈に勇気を得られたような気がしました。
形の無い、心の中にある音楽を如何に記譜という形あるものにしていくか。
三善先生、作曲家の方々だけではなく、浄書のプロフェッショナルの努力、またそれが電子化によってどう変化していくか。
いろいろと興味深く、たいへん面白く読めた論文でした。
宮下玲衣さんありがとうございました!
そして三善先生にあらためて畏敬も。
(……優しくも、本当に怖い方だったんだな~と)