長崎《祈りの合唱の祭典》をめぐる記 :その1

 

2025年10月12日(日)・13日(月・祝)の2日間。

ブログ記事でも紹介した

ながさきピース文化祭2025「合唱の祭典」

……へ行ってきました。

これがとても良い体験だったので、2日間、浦上天主堂で見聞きしたことを書こうかと。

 

 

10月12日(日)開場の14時30分前に浦上天主堂への坂を上り、汗をぬぐい、列に並びます。

この日の最高気温は 31.2℃、もはや残暑とは呼べないほど。

長崎に原爆が落とされた8月9日の記録によれば、気温は29.9℃だったとされ、この日の暑さが当時の状況に重なるようでした。

 

浦上天主堂に入って驚いたのは、まずその広さ!

千人以上が入ると聞く広い堂内、祭壇の奥、中央には磔にされたイエス像があり、差し込むステンドグラスの光が印象的。

脱帽を促され、信徒席である木のベンチ、木の長机に向かい座ります。

さらに机の下には賛美歌集が。

当たり前のことながら、ここは宗教施設なのだという思いが改めて強くなり。

 

最初は長崎県合唱連盟理事長、そして今大会の実行委員長:伊藤信二さんによるご挨拶。

プログラムにも記載されていましたが、祈りの意味を強く問うもの。

世界が今危ういバランスで成り立っているなか、祈りや歌はどんな力を持つか。

合唱の祭典であることを強調するように「墓石ひとつ残さなかった兵士」と谷川俊太郎による詩の合唱曲「死んだ男の残したものは」の一節を引き、どうか「夕焼けが火の色に血の色に見えることなどありませんように(高田敏子:夕焼け)」と結びます。

 

 

《長崎の小学生が響かせるまっすぐな祈りの歌》

 

始まりは長崎県の小学生合同合唱団(104名)。

谷崎万里子先生による指揮、樋口梨絵先生によるピアノ。

これが……とても良かったんです!

長崎県内の合唱団体所属の小学生6団体ということで、どれほどの演奏かと注目していましたが、長崎のわらべうた「でんでらりゅうば」から、とても伸びやかでまっすぐに純な歌声が耳に届き、良い意味で予想を裏切られました。

教会の響きも影響しているとは思いますが、元気いっぱいでもがなり声にならず、まとまりがある声の響き。

カッチーニ「Ave Maria」の少し哀しげな旋律が教会に美しく響き渡ります。

 

続いて「クスノキ」は被爆2世である福山雅治氏が2014年に作詩作曲された作品。

「千羽鶴」は平成7年の被爆50周年記念合唱曲で、長崎出身の大島ミチル先生が作曲された作品。

調べたところ、「クスノキ」も「千羽鶴」も他の小学校が歌ったり、高校生やオーケストラとの協演で大人たちが歌っている動画がおすすめに上がります。

後述しますが、この2曲は長崎の人々に広く、長く歌われている作品であることも関連し、詩のメッセージについて考えることに。

最後は大島ミチル先生作曲の「Nagasaki Green&Blue」で長崎の未来を高らかに歌い上げました。

 

《長崎の中学生たちが訴える、平和への“ねがい”》

 

小学生合同合唱の見事さに驚いた自分ですが、次の中学生合同合唱団(52名)ではさらに驚くことに。

指揮は力田和歌子先生、ピアノは託摩千尋先生。

力田先生が演奏前に「合同練習はたった3回で……」と話されていたので油断していました。

有名な「翼をください」の前奏ピアノからの合唱・・・えっ、上手いぞ?!

さらに歌が盛り上がる直前に力田先生は指揮を止め、合唱団の脇に寄ってしまいます。

 

この大空に 翼をひろげ飛んで行きたいよ 

 悲しみのない自由な空へ翼はためかせ 行きたい

 

指揮に頼らずまっすぐ前を見据え歌う中学生たちは、まさに「自由な空へ」という願いを力強く歌うよう。

 

そして、信長貴富先生の「天空歌」の次に歌われた、同じく信長先生の「ぼくの村は戦場だった ―あるジャーナリストの記録 ―」より「ねがい」が本当にヤバかったんです。

当時11歳、旧ユーゴスラビアの少女イヴァナの詩という背景を知らずとも、ステンドグラスに照らされた中学生たちに切々と

 

戦争や争いをやめてください

 子どもに笑顔がもどるように

 飛行機や砲弾をとめてください

 子どもに笑顔がもどるように……

 

そう歌われてごらんなさいよ。

誰だかには知らんけど

 

「申し訳ありませんでしたぁッ!」

 

と泣いて謝りたくなったぞ!

 

 

この浦上天主堂という場で聴くというのもありますが、とても練り上げられた演奏、純粋な小学生、中学生の歌唱が心に届き、非常に深い感興が起こりました。

後でお話しした長崎県外の合唱指揮者お二人も、この日の小学生と中学生の合唱を絶賛。

何でも先入観で決めつけてはいけないな……と反省しました。

 



 

純粋な声に揺さぶられる──祈りを受け止める迷い

 

ただ、演奏には全く文句は無いものの、中学生が最後に歌った「リメンバー」といい、先ほどの小学生の「クスノキ」「千羽鶴」といい、あまりにも上手く、まさに「祈りの合唱」の力を存分に浴びてしまって。

つまり、「長崎」ならではの平和教育を受けた子たち、それを訴え続ける「強さ」に打たれたんですね。

具体的な行動を示唆するテキスト、特に「リメンバー」などの直接的な言葉には正直、感動の裏側で、自分がどこまで受け止められるのかを、試されているような戸惑いもありました。

 

なぜ戸惑いが生じたのか。

最近、友人たちと話をしたときに

「ChatGPTで作ったような詩ばっかり歌って良いのか?!」

そんな議論をしまして。

説明すると「AIが過去の詩を均し、クレームを避けるため毒にも薬にもならない詩を出力するけど、それと似たような詩を合唱人は歌って良いのか?!」ということです。

 

「じゃあ平和を願う曲を歌った後に、指揮者がChatGPTで作るような詩とは真逆に

 『ロシアも悪いがウクライナも悪い。

 一番悪いのは軍需産業』

……みたいなスピーチをされたら、自分たちは演奏も含めて素直に受け入れられるの?」そんな疑問も出て。

 

平和への願いはみんな同じのはず。

しかしその「平和」とは何か、その実現の道筋となると、思い描く姿は人によって大きく異なってしまう。

だからこそ、言葉にすることの難しさと責任を、重みとして実感させられて。

 

そういう直接的なメッセージを避けようとした場合、うたごえ運動のテキストとは違って、多くの人はどうしても「ChatGPTで作ったような詩」を選んでしまう。

「毒にも薬にもならない」に批判的な目を持っていたつもりの自分ですが、いざ直接的なメッセージを優れた演奏で突き付けられたこの時、それを許容できるか?

 

もちろん長崎の地で聴いた小学生や中学生が歌うメッセージ、それは先の指揮者のような政治的主張とはまったく異なるんですが。

それでも、彼らのまっすぐな言葉に触れたとき、「祈り」をどう受け止め、どう語り継ぐべきか。

自分の中で静かに問いが芽生えたんです。

 

 

↓ 続き「Combinir di Coristaさん公開リハーサル」です。