長崎《祈りの合唱の祭典》をめぐる記 :最終回

 

次に登場するは、佐賀の女声合唱団ソレイユさん(27名)。

 

ソレイユさん、伊藤理事長が言うには「最強の女声合唱団」

全国大会で11年連続金賞という輝かしい成果、さらに8月には佐賀女子高校合唱部とともにラトビア演奏旅行を終えられての出演。

ほぼ全員が暗譜、過度な力を入れることなく音楽が自然に届くのは、揺るぎない実力があるからこそでしょう。

4年前の全国大会、コンクール自由曲でも聴かせていただいたエルネサクス「窓辺の鳩」はエストニアの作曲家らしい透明感があり。

リトアニアの作曲家:ミシュキニス「Ave Maris Stella Nr.2(めでたし海の星)」は独特の音響から迫ってくるリズムまで、幅広い表現で祈りが伝わってきます。

 

正統派の合唱に聴き惚れていると、今年の全日本合唱コンクール課題曲の平木悟「かつて私は信じていた」。

暗闇での口づけをミステリアスに歌うこの作品を、ソレイユさんは今までとガラリと雰囲気を変え妖しく!特にアルトが主演女優級の演技力!

 

なるほど、やはりソレイユさんは最強の女声合唱団だ……と思ったところ、ダメ押しで最後にもう1曲ありました。

ラトビアの作曲家エシェンヴァルツ「Northern Lights(北極光)」。

北極光、つまりオーロラを表現した作品。

2017年の全国大会でも演奏された作品ですが、この天主堂で聴く「Northern Lights」はひと味もふた味も違いました。

トーンチャイムと、ワイングラスを水で満たしたグラスハープが、合唱、ソリストの歌と響き合い、天主堂を幻想的な音で満たします。

 

美しさだけでは無く、「北風に立ち向かう夜はいったい何度あっただろう オーロラが戦っているのを見た 」と強く対峙する力が歌に宿り、確かな説得力をもたらし。

最後はダイヤモンドダストが煌めくようなグラスハープの余韻と共に、深い感動を与えてくれました。

天主堂は拍手喝采です!

 

さて、この後に長崎の混声合唱団であるJOYさん、合唱団「翔」さん、長崎県おかあさんコーラス連盟合同合唱団さんの出演があったのですが、やはり木の長椅子に連日長時間座るのは体に差し障りがあったようで。

鎮痛剤でも抑えられず、大変申し訳なく、心残りではありましたが、やむなくここで退出させていただきました。

 

 

 

《結びにかえて》

長崎県理事長の伊藤信二さんの言葉を、プログラムの「ごあいさつ」から引用させていただきます。

今回の『祈りの合唱の祭典』という題は、被爆瓦礫から復活した浦上天主堂を会場として戦争犠牲者への鎮魂の意もありますが、私たちが歌うことと聴いていただけることこそ平和の象徴であり、世界がそうあってほしいという祈りです。

伊藤さんのこの言葉は、祭典の二日間を通し、私に「歌とメッセージの境界線」という重い問いを突きつけました。

長崎の小中学生が歌った「ねがい」や「リメンバー」の、あまりにもまっすぐで具体的な平和へのメッセージには、正直なところ、「特定の主張を含む歌をどう受け止めるか」という戸惑いが生じてしまって。

平和の定義や道筋が人によって異なる現代において、言葉が、思いがけず人のに壁を作ってしまうこともあるからです。

 

しかし、その戸惑いは、MODOKIさんの公開リハーサル、そして団員である田中さんの「客席で祈る方と指揮者の姿が重なった」という言葉によって、静かに昇華されていった気がします。

そして思い返してみれば、それはMODOKIさんだけの特別なことではありませんでした。

Combinir di Coristaさんやソレイユさんの生き生きとした世界、ねがいを歌った小中学生の真摯な声、長崎地元の団体や、祭典に参加した他のどの団体の声からも、技術の物差しでは測れない、人を思うあたたかな心が歌から伝わってきたとき、私の戸惑いは静かに納得へと変わっていった気がします。

 

MODOKIさんの演奏と田中さんのメッセージが示したこと。

「祈り」は言葉や主義主張を越え、目の前の人の幸せや安らぎを願う、分かち合える“思い”なのだと。

「歌うことは祈ること」とは、テキストの内容が「祈り」であるかどうかではなく、

 

・歌い手が純粋な思いを込めること。

・聴き手がそれを受け止め、心の中で「pacem(平安)」を共有する空間を創り出すこと。

 

この二つが重なり合った空間が、別の表情を見せる瞬間を指すのだと、強く実感しました。

長崎という鎮魂の地で、私はただ音楽を聴いたのではなく、「祈りの共有」という得難い体験をしたのだと。

 

長崎、浦上天主堂という場、そしてキリスト教の信徒の方々と多くの優れた演奏を拝聴し、その歴史と想いの強さに圧倒されたのは事実です。

しかし、「祈り」は宗教の中に閉じ込めておくにはあまりにも広い意味を持っている、とも感じます。

 

誰かを思いながら声を発すること、誰かと声を重ねること。

そのささやかな行為の中にこそ、人が「祈る」原型のようなものが潜んでいる。

歌が上手いとか下手とか、整っているとか乱れているとか、そうした評価の物差しの外側に、もっと深い世界がある。

 

そこで声は結果ではなく過程であり、その人が生きてきた時間や想いが、そのまま響きとなって現れている。

合唱は、そうした「人の時間」と「人の想い」を重ね合わせる営みであり、場でもあって……。

 

ひとりひとりの声が完全に一致することは無くても、互いの呼吸や気配を感じながら同じ方向を向く。

そこに生まれる音の中にこそ、生の証のようなものが宿るのかもしれない。

上手く歌おうとする努力の奥で、「なぜ歌うのか」という問いが静かに息づいている。

その問いに明確な答えは無いけれど、それでも人は声を出し、誰かと声を重ね合おうとする。

 

一連のささやかな営みこそが、「祈り」がふと形をとった瞬間なのだと、今は強く感じるのです。

 



長崎《祈りの合唱の祭典》をめぐる記 :おわり