MODOKI演奏会感想:フェイクが本物を超えるとき

 

 

最終ステージ「蜜蜂と鯨たちに捧げる譚詩」。

クライマックスで指揮者の山本さんは椅子から立ち上がった。

いつもは両腕に松葉杖を使う人が、音楽の力だけで天へと伸び上がるように。

 

 

「MODOKI CONCERT2026~相対するものたち~」と名付けられた、合唱団MODOKI創立三十五周年を記念する5年振りの単独演奏会。

3ヶ月前に全国大会が行われた佐賀市文化会館、その中ホール2月23日月曜祝日の14時から開演。

 

約60名の団員が集結し、一切妥協の無いプログラムを繰り広げた。

演奏会テーマである「相対するものたち」に指揮者の山本啓之さんは「相対する」を 「そうたいする」「あいたいする」どちらで読んでも良いと語られた。

「そうたい」は関係の中で成り立つこと。

「あいたい」は互いに直接向き合うこと。

比較関係としての「相対」と、向き合うものとしての「相対」。

その二つの意味を踏まえて今回のプログラムを振り返ると、非常に興味深い。

 

 

まず、第1ステージのヨハネス・ブラームス「2つのモテット(Zwei Motetten Op.74)」では「2曲」ということが相対だ。

1.Warum ist das Licht gegeben dem Mühseligen?(なぜ苦しむ者に光は与えられるのか) 

2.O Heiland, reiß die Himmel auf(おお救い主よ、天裂いて降り来たり給へ)

 

優れたバスの上に乗る混声合唱。

Warum?(なぜ?)」と繰り返される問いは次第に重みと厚みを増し、そこへ応えるようにコラールが現れる。

自分にはこの2曲が

「神へ疑問の形で差し出される讃歌」と

「受容による純粋な讃歌」

として聴こえた。

プログラムにあった「人間の苦しみの深淵」「神へ向けた祈りの声」「苦悩から希求へ」という説明にも納得する。

2曲は互いに苦悩と希求を内包しているが、それでも1曲目の「Warum?」があってこそ、2曲目の受容が響く。

「救われるとも分からぬ祈りを、それでも祈り続ける音楽」という言葉が、深い余韻とともに残った。

 

 

第2ステージのヨーゼフ・ラインベルガーのミサ(Messe in Es "Cantus Missae" Op.109)は二重コーラスの間で生まれた音が、優しく柔らかく育まれ、こだまし、ホールに広がっていく。

長崎の浦上天主堂でも聴いた作品だが、やはり中ホールの音響では、あの体験にやや劣ってしまう……と書くのは酷だろうか。

 

それでも、どちらも重要で対等な2つの合唱団がキャッチボールをするように、またはひとつの合唱団のようにまとまり、音楽を大切に紡いでいく意志は変わらず。

 

この2ステージ、両曲とも19世紀ドイツ語圏の作曲家によるキリスト教テキストの作品だが、MODOKI団員は距離を置こうとせず、生きていく中で得た実感を、曲の形を借りて陰影濃く豊かに発しているように感じられた。

 

 

後半2ステージは邦人作品を。

木下牧子作曲「オンディーヌ」(詩:吉原幸子)は「聖霊オンディーヌ」と「人間ハンス」の相対。

聖霊が人間世界の「愛」で純粋性を失い堕落してしまう悲劇……とも解釈できる。

しかし演奏は、その堕落を単なる悲劇ではなく、人間として生きることの業まで考えさせるものだった。

主にオンディーヌを思わせる女声も、昨年の全国大会より力を増した分、純粋で儚いだけの聖霊というより人間に近づいていく存在の確かさが。

男声(ハンス)も人間らしい妖しさから、この曲の特徴であるサウンド、それは無機的とまでは言わないが、人間くささを廃した透明な美を上手く担っていた。

このサウンドの構築には、酒井信先生のピアノが役立っていたのは言うまでも無い。

 

一番印象深かったのは、オンディーヌとハンスが合わさる、混声で歌われたテキスト。

にんげんのドラマのはじまり

にんげんたちはあなたより重い靴をはいている

今までの音には無かったにんげんゆえの「濁った」音、それは対立する者が無理矢理ひとつになったことでもあるが……強く説得力を感じた。

一歩間違えば混沌になりかねない濁り。

しかしその音には、人間の孤独と悲哀が確かに息づいていた。

 

 

最終ステージ:三善晃「蜜蜂と鯨たちに捧げる譚詩」(詩:白石かずこ)は2曲から成る、さらにラインベルガーと同じく、2つの合唱団の「相対」。

加えて鯨や蜜蜂と人間を相対させ、自然と人間の文化、鯨たちの平和と人間の争いも対比しようとする。

 

特に2曲目の「さまよえるエストニア人」。

軽やかなリズムで明るく描かれる幼少期の楽園(その象徴としての「蜜蜂」)に引き込まれるが、一転、戦火の恐ろしさが世界を覆う。

そこからふたつの合唱団がひとつになり、「帆をたたんじゃいけない」と諦めず何度も呼びかける、平和への力強い希求へと変わっていく。

 

クライマックスで、山本さんは椅子から立ち上がった。

いつも松葉杖を使う人が、音楽の力だけで天へと伸び上がるように。

天使たち」で、何度も天を指した。それだけで、十分だった。

 

それはこの作品のテーマである、平和を訴え続けようとする姿だったのかもしれない。

あるいは、「本物」へ手を伸ばそうとする瞬間だったのかもしれない。

人間は弱く、何度も失敗を繰り返し、それでも未来を探す存在なのだと。

 

 

アンコールは三善晃編曲「Over the rainbow」。

さらに同じ三善作品の「生きる」。

 

「蜜蜂」にしても「生きる」にしても流さず、音を噛み締めるようなテンポが、MODOKIの35年の成熟を感じさせるものだった。

客席を見渡しても集中している観客が多く、詩を読もうとプログラムを見ている人も、徐々にプログラムを膝に置きステージに見入ってしまう。

アンコールに「生きる」を演奏すると聞いた瞬間、会場がざわめいた。

え。そうきたか、山本さん。ここまで「相対」? きっと誰もがそう思ったはずだ。

 

それにしても、月一回の練習でこれほどの曲目をここまで高められるとは!

MODOKIの始まりは、佐賀大学混声合唱団コーロ・カンフォーラの学生指揮者だった山本さんと、当時の団長お二人の「何か面白いことをやりたい」、つまり大学合唱団の仲間うちの軽い思い付き。

「じゃあ団名は『合唱団のようなもの』、『合唱団擬き(もどき)』→MODOKI』だ!

その独特な団名も、当時としては珍しい黒上下のスタイルも、当初はかなり批判されたそう。

 

演奏後に山本さんは

「最後のアンコールもダブルアンコールにさせてもらったりしましたが、最後に相対するのは観客の皆さんと私たち演奏者という思いで演奏させていただきました」と書かれていた。

「合唱団モドキ」という、言わば《フェイク》を35年掲げ続けた団が、この演奏会で《本物とは何か》を観客に問い返してきたのだと思った。

フェイクと自称しながら本物を追い求める。

それは山本さん一流の照れかもしれない。

だが「本物とは何か」を問い続けるためには、フェイク(擬き)という団名こそがふさわしかったのだろう。

 

何かを追い求めるとき、その対象と同時に、自身を省みることもまた必要となる。

だが、35年重ねたその歩みの前では、「本物」「フェイク」という区別はもう意味をなさない。

あの日、山本さんが立ち上がり、手を天へ伸ばした瞬間、ステージと相対する客席の誰もがそれを知ったのだと思う。

 

合唱団モドキから始まった活動が、いまや並び立つ団体も少ない存在に。その歩みに大きな拍手を!

(MODOKI演奏会感想 終)