出雲での女声合唱団フィオーリ結成40周年記念演奏会。
いちばん印象的で心を捉えたのは第3ステージの「ユーミン・オールディーズ」でした。
ユーミン(松任谷由実)にそれほど思い入れの無い自分が、ここまで深く感じ入るのは自分でも意外だったのですが。
演奏会全体を振り返れば、このステージに結実している気もして納得の思いもあります。
それは「プログラミングの妙」と「女性の変化と普遍」というふたつのテーマ。
では、この演奏会がどんなものだったのか振り返ってみましょう。
■座敷唄が問いかけるもの:時代を超える女性の意志
7月6日の日曜日、昼過ぎ。
30度を超える気温の中、出雲大社前駅から歩いて数分の「大社文化プレイスうらら館だんだんホール」へ。

今回は作曲家:信長貴富先生の作品展で、すべての曲を信長先生が選ばれた演奏会。
ピアニストの平林知子先生も歌い手に加わった24名による(うち男性2名)無伴奏の「こころよ うたえ」(詩:一倉宏)から幕開け。
詩の「いのち尽きるまで 歌え」という一節、この演奏会の志を強く宣言するような歌唱。
続いて団員さんは思い思いの布を衣装に付けて『デフォルメとフュージョン〜三つの座敷唄による〜』
雨森文也先生の指揮で。
1.梅は咲いたか
2.鬢のほつれ
3.へらへら
座敷唄はいわゆる「宴席で芸妓が三味線などを伴奏に歌う俗曲」を指します。
「梅は咲いたか」は元曲から春の情景を歌うのんびりした雰囲気かと思っていましたが、その予想は良い意味で裏切られました。
平林先生の鋭いピアノは現代ジャズを思わせ、激しく合唱と応酬する難曲。
「鬢のほつれ」も、浮気を疑われた遊女の言い訳(鬢の乱れは他の男との情事が理由では無く、枕のため……)から、どこか艶のある曲想と予想していたのですが。
しかし「苦界=遊女の境遇」を表わしたような暗く重い前奏に始まり、そこへ女性の情念まで感じさせる深い表現が心に迫ります。
「へらへら」は軽やかなリズムで陽気な「へらへら踊り」を元にしたものだとか。
これは自分の「座敷唄」のイメージに近いものの、それでも速いテンポで複雑なリズムが交差するかなり現代的な難易度の高い作品。
難曲を見事に歌い切っていたのは素直に感心しましたが、当初持っていた「座敷唄」のイメージから大きく違っていたのは驚き、考えさせられました。
現代では、芸妓や遊女が身を置いていた、吉原などの遊郭を題材にしたドラマやアニメには厳しい意見も存在します。
(信長先生もこの作品について「効率化や法令遵守が過剰に求められる現代社会へのアンチテーゼの意図も含まれている」と述べられていて)
現代基準のコンプライアンスや不快感から、遊郭という存在を目に触れさせまいとする行為ははたして正しいのでしょうか。
遊女も芸妓も、男性が好む女性像そのままではなく、裏には強い意志があり、確かに生きていたのだ、そんな主張がこの作品に込められている、そう考えるのは穿ちすぎでしょうか。
■『超訳恋愛詩集II』:古今を繋ぐ女性の心情
続いては女声合唱とピアノのための
『超訳恋愛詩集II』
1.みだれ髪
2.そうね、私は年をとった
指揮:雨森文也
与謝野晶子の「みだれ髪」、小野小町の和歌を題材に、菅原敏氏の「超訳」が冴える作品。
例えば「花の色は うつりにけりな」が「そうね、私は年をとった」と訳される面白さ。
前半の原詩パートでは古謡のしっとりした雰囲気で、ひとりの女性の思いの丈がこぼれる抒情、そして「超訳」パートではガラリと表情を変え。
どこか捨て鉢な「そうね、私は年をとった」が、ビートの効いた平林先生のピアノでドライブ!
最高にクールでカッコイイ!
■「女性の変わるものと普遍的なもの」:3つのステージが語るテーマ
ここで前述の「ユーミン・オールディーズ」に繋がってくるのですが、その理由は、演奏前のトークコーナーで信長先生が語られた、ある言葉にありました。
「ポップスも座敷唄も合唱曲も、それほど違うと思って作曲していない。音楽として繋がっている」
この発言が非常に印象的だったんですよね。
実際、「プログラミングの妙!」と唸ったのは、第1ステージの「座敷唄」で示された江戸情緒の音楽が、続く「超訳恋愛詩集」の前半パート、いにしえの響きと自然に繋がっていたからです。
さらに「超訳恋愛詩集」の後半で展開するビート感ある現代的な音楽が、ポップス編曲の「ユーミン」へと違和感なく繋がっていく……。
その流れのなかで、「音楽として繋がっている」という信長先生の言葉の重みがひしひしと伝わってきました。
また、「座敷唄」では男性に隷属するも巧みに意志を通そうとする芸妓の姿が見え隠れします。
続く「超訳恋愛詩集」では、小野小町や与謝野晶子の作品から、平安・明治に生きた女性たちの心情が現代にも通じることが読み取れました。
そして、ユーミンの楽曲に触れると、さらに視界が開けます。
それまでの歌謡曲が「男性詩人が望む女性像」を投影してきたのに対し、ユーミンは女性自身の視点で主体的に生きる姿を描いていたのです。
こうして見えてきたのは、変化する立場や社会性と、それでも変わらない心情。
つまり、「女性として変わるものと普遍的なもの」というテーマでした。
3つのステージを通して浮かび上がったこのテーマは、とても刺激的で、私の心に力強く刻まれました。
石橋久和先生が指揮をされた「ユーミン・オールディーズ」は、言葉の扱いも細やかで、団員さんの歌唱も一段と伸びやか。
そこには、歌う人々の思いが確かに息づいていました。
ユーミンにはそれほど思い入れが無いと書きましたが、あらためて合唱で聴くと、その詩やメロディの力に圧倒され、「さすが!」と思わせる名曲ばかり。
特に前半の3曲「卒業写真」「瞳を閉じて」「ノーサイド」。
1曲の中に過去・未来・いま、三つの時間軸が見事に織り込まれ、最後に心情と意志を歌い切る構成に痺れてしまいました。
平林先生の豊潤なイメージから生まれる多彩な音色のピアノ、宇家郁子先生の作品の心情を映し出す繊細なフルート、そして信長先生が考案した演出(なんと、団員さんは1日で覚えたとか!)。
こうした要素が響き合い、完成度をさらに引き上げる、実に素敵なステージだったのです。

余談ですが、ぜんぱく先生に送ってもらった帰りの車内で「ああいうポップスの合唱編曲をまとめたものは、いま現在のヒット曲では難しいかも?」という話になって。
理由は2つ。
①曲が高難度化(テンポ速すぎ、キー高すぎ、転調多すぎ!)
②“幅広い世代に長く愛される曲”が出にくい(好みの細分化&消費スピードUP)
……とはいえ「20年後には米津玄師やヨルシカのオールディーズが出てるかもね⁈」と笑って終わったのですが。さて、どうなるでしょうか?
■歌う行為への問い:「ソング」に感じたこと
休憩を挟んで、二部合唱のための3つのソング
『ねむりそびれたよる』
・忘れものをとりにいらっしゃい
・ねむりそびれたよる
・ピカソ
指揮は信長貴富先生。
ステージの前には、信長先生と雨森先生のトークコーナーがありました。
「ソングとは何か?」という問いかけから始まり、「オペラのアリアとはどう違うのか?」
雨森先生の質問に対し、信長先生はこう答えられます。
「ソングはアリアよりも、言葉やキャラクター、そして心情に寄り添っている」
この言葉には、とても関心をそそられました。
「集団で歌う」行為に対し、常に問題意識を持ち続ける信長先生。
テキストの選択や作曲、演奏形式など、そのすべてにご自身の答えを示されているように感じます。
だからこそ、この「ソング」は、「歌うとは何か?」その問いへのひとつの答えなのではないか。
そんなふうに思わずにはいられませんでした。
二部合唱編成、さらにホモフォニック(※複数の声部が同じリズムで進む合唱形式)を中心に据えたこの作品は、その信念を象徴するものに思えたのです。
さて、ここで「言葉が伝わること」について、少し考えてみたいと思います。
合唱の演奏で、「言葉が分かりにくい」、そんな感想を目にすることがありますね。
音の高低やリズムにこだわり、言葉と音楽をしっかり結びつけた作品を、作曲家の理想を酌み取って演奏する。
それはもちろん価値のあること。
しかし、ポリフォニックに声部が交錯する作品でも、「言葉の明瞭さ」を常に求めるべきでしょうか。
そもそも、もし「言葉」だけを聴きたいのであれば、合唱や声楽ではなく、朗読でも良いんじゃないか……。
すべての合唱作品において「言葉の聴き取りやすさ」だけを重視するのではなく、作品によって柔軟に考えるべきではないか。
そんな思いが強くなりました。

今回の二部合唱の「ソング」は、ホモフォニックな箇所が多く、言葉のニュアンスも生かされ、詩のメッセージが真っ直ぐに伝わってきます。
とりわけ印象的だったのは、最終曲の「ピカソ」。
親しみやすいメロディの「ソング」の中、「ピカソ」は「私が死んだらさ」とひときわ軽妙に始まる谷川俊太郎氏の詩。
谷川俊太郎氏への追悼の気持ちを込めた選曲だったのかもしれません。
信長先生自らの指揮に、フィオーリ団員の皆さんが力強く応えたこのステージ。
その演奏は、疑いなく充実感に満ち溢れていました。
■村上昭夫の詩が現代に響く:『闇のなかの灯』
最終ステージは女声版初演
『闇のなかの灯』
I.闇のなかの灯
II.世界
Ⅲ.ふと涙がこぼれる
指揮:石橋久和
編曲委嘱の経緯について、指揮の石橋先生はこう話されていました。
松江北高校がコンクールで演奏した「ふと涙がこぼれる」に、「一目惚れ」ならぬ「一聴き惚れ」したことがきっかけだったのだと。
この作品は、コロナ禍の2022年、東京混声合唱団の委嘱初演作品。
私も配信で聴いて以来、深く心に残っています。
シベリア抑留を経験し、結核に苦しみながら41歳で世を去った村上昭夫。
「死と隣合って静かな慟哭をもってうたわれた詩」という評もある詩人。
彼の人生と詩から、目を逸らすことはできませんでした。
ある意味簡素なフレーズとリフレイン、「3つの祷歌」という副題から、祈りの場で歌われる賛美歌も連想させる「闇のなかの灯」。
世界全体が暗闇に沈んでいたかのような2022年に生まれたこの作品は、 「大丈夫」とも「輝かしい未来がある」とも語りません。
それでも、 闇の中にある灯とは、外にある光ではなく、心の奥に微かに灯るものなのだと、そっと教えてくれるようです。
そして最終曲「ふと涙がこぼれる」。
この良曲を世界に広めたい、石橋先生とフィオーリのみなさんの強い願いが、見事に結実した演奏だったと思います。
ただただ圧倒されました。
こぼれた涙の先に、もしかすると新しい希望が芽生えるかもしれない――。
詩と音楽は、静かに、しかし確かにそんなエールを灯していました。
■出雲の合唱団が発信する意味:演奏会総括
聴き終えた後、思わず精一杯の拍手を送りました。
出雲の地で、20数名の合唱団が、これほどまでに幅広い作品を、これほど志高く、充実した演奏で届けてくれるとは。
感嘆するばかりです。
暗譜で歌われる団員の方も多く、その表情、何より届いた歌声からは 「演奏会に賭ける並々ならぬ想い」が伝わってきました。
音楽監督の雨森先生が 「自分が関わるようになってから、一番良かった演奏会」と仰ったのも、きっと誇張ではないでしょう。
この演奏会は単にレベルが高いだけにとどまりません。
むしろ、 「作曲家:信長貴富の創作動機に見事応えた演奏会」だったと言うべきでしょう。
信長先生ご自身が手がけた選曲、トーク、指揮からは 「合唱とは何か」「歌うという行為の意味」さらにはその未来までもが見えてくるような、多層的な魅力がありました。
フィオーリ結成40周年にふさわしい、記憶に深く刻まれる会。
アンコールは「ユーミン・オールディーズ」から「やさしさに包まれたなら」。
最後に、信長先生自らの指揮で覚和歌子氏の詩による「リフレイン」。
この「リフレイン」は、演奏会を閉じるにふさわしい一曲。
特に胸の奥へ響いたのは、次のフレーズです。
なんどでもくりかえす
この今は 一度だけ
40周年記念という「今」が、まさにこのフレーズに凝縮されているかのようでした。
一度きりの「今」を、私たちは、確かに体験したのだと。
