コンクールへの連盟・ハーモニー誌への提案

 

この記事は、昨年新潟での全日本合唱コンクール全国大会を基にした、ハーモニー誌冬号の全国大会座談会への私が考える問題点具体的な改善策を記しています。


問題は全日本合唱連盟が与える「賞」や、全日本合唱コンクール全国大会というブランドイメージをどう考えているか?に帰着します。
今のままだと「とりあえず審査員9人の出した結果で、賞の価値は保証しない」と受け取られてもおかしくないのでは。

念を押しますが、金賞受賞団体を批判すること、辛口の意見を排除すべきとの考えは、私は一切持っていません。
ただ、人口減でコンクール参加団体、人数も減り。
他のコンクール、東京国際合唱コンクールや声楽アンサンブルコンテストなど、他の審査基準が明確な個性あるコンクールも軌道に乗り。
極めつけは「コンクールへ参加することに意義を見出せない」人が増えている現在、全日本合唱コンクール全国大会の「金賞の価値」を、合唱連盟が保証することは非常に重要なことと考えます。

 

 

繰り返します。
辛口の意見はあっても良いし、むしろ無いと困ります。
(自分の観客賞座談会も、ハーモニー誌での音楽のプロフェッショナル諸氏による辛口の指摘を期待し、自分たちのトーンを抑えている気もあります)
ただ、賞で高評価を付けたのなら、厳しい意見とは別に「高評価の理由」も述べなければ片手落ちなのではないでしょうか?

たとえばこの文章をお読みのあなた。
あなたの部下や後輩が良い結果を出し、表彰されるとき、イヤミや《厳しい意見だけ》しか言わないのは、上司や先輩として正しいありかたでしょうか?
もちろん今後成長するための指導や発言はあっても良いと思います。
それでも認められ評価された人間がそれを実感し。
さらに先へ進んでいけるような言葉を選びましょう、セットにしましょう!ということです。
オッサン→老人の「自分が認めたヤツにこそ厳しくする」、そしてそれを認める文化、ほんとうに止めて欲しいと思います。
教師や上司に殴られて「押忍!ご指導ありがとうございましたッ!」言ってる時代じゃ無いんです。
良いと評価したなら、ちゃんと伝わるよう褒める、それが令和の今、必要とされているのではないでしょうか。

それを踏まえ《具体的で現実的な提案》を2点書きます。


1)編集方針の変更

ハーモニー誌座談会の編集は、非常に立派なプロフェッショナルの仕事です。
たとえば自分を含めた「知人との3人の会話」を5分だけでも録音し、実際に文字起こししてみれば。
発言の要旨を取り出し、会話としてわかりやすく読ませることが、いかに大変なのか理解できることでしょう。
それでも、自分は趣味で座談会編集の真似事をしているアマチュアですが、僭越ながらもう少し変えられないかな?と思う点が。
やはりそれは「読者が賞にふさわしい印象を受ける編集」に尽きると思います。
例えばA先生が抗議された対談部分。
まず順位を高く付けた今村氏が演奏を褒めてから、低く付けた岡田氏が「ぼくの評価はそこまで高くない」と切り出します。
そりゃこの順番に発言するなら、そういう感じになりますよね。

例えば

A「あいつって周りに優しいし良いヤツだよな~」
B「でもケチだよ、常に1円単位でワリカンだし」

しかしこの会話の発言が逆の順序だったら。

B「あいつって金に細かいよな」
A「えー、でも良い部分たくさんあるよ。周りに優しいし、そうそう、こないだも良かったのが・・・」

となる場合が多いんじゃないでしょうか。
順位によって求める発言の順序を考える司会、編集者のさじ加減。
ハーモニー誌座談会記事の編集は、団体ごとに厳しい意見で終わることに躊躇していない点が問題だと思います。

発言の順序が今村氏 → 岡田氏のままでも、「曲を初めて聴く人にも、あ、これ面白い、と思わせて欲しい」で締めた後に、編集者が「そうは言われても金賞を受賞された○○さん。今村先生、岡田先生の今のご発言を受けてどう思われますか?」と振れば今村氏のフォローが入るかもしれない。
最後にフォローがあれば、団体ごとの印象はかなり違うものになります。
そういう「読者が賞にふさわしい印象を受ける編集」が「金賞の価値を保証する」ことに繋がるのではないでしょうか。

 

2)全審査員による講評の必要性

審査員の講評の公開が、ハーモニー誌座談会に選ばれた2人だけというのも変な話です。
極端なことを言えば、金賞を受賞したのに、下位に付けた審査員2人が該当団体をひたすら批判し、その言葉だけが残る結果になっても不思議じゃない。
A先生も、高評価だった別の先生方の講評を読まれていれば、岡村氏に批判されても、あそこまで怒られることは無かったかもしれません。
もちろん審査員を経験された方から聞いたところ、講評を書く手間は非常に大変だそうですが。
1団体ごとの出場・退場の間を1分ずつ取るなどで解決できないでしょうか。

現実的に審査員全員が、その場での全団体の講評は無理だとしても。
各部門、それぞれ審査員が金賞に評価した上位団体(各部門3~6団体なので、合計15団体)への講評を当日ではなくても書いていただき、公開する(それが難しいなら出演団体だけで共有)のも良いかもしれません。
辛口講評が目立った岡田氏も、同声部門の1位へ付けたmonossoさん、3位のVOCI BRILLANTIさんへは大変頷ける、好意的な良い発言をされています。
そういう金賞にふさわしい、評価と内容が繋がる講評を読めば「ハーモニー座談会では貶されていたけど、他の審査員はちゃんと評価してくれたんだし、まぁ許そうか。次も頑張ろう!」……そんな印象になると思うんです。
また、下位に付けた審査員2人の、批判ばかりの座談会を読んで「……なんでこれが金賞になったのかさっぱりわからん」と戸惑う読者を減らすことも出来ます。
※9年前のブログ記事「「私の1位」が読みたい!もよろしければお読みください。

 

それでは《まとめ》です。

◎「合唱連盟・ハーモニー誌は全日本合唱コンクール全国大会というブランドイメージ、《金賞》の価値をちゃんと作ってほしい!」

「M-1グランプリ」という漫才師の頂点を決める番組があります。
M-1放送開始、初期の2001年放送をAmazonPrimeで見返したら、面白いことに気づきまして。
初期M-1では、ネタ中の審査員の表情は会場がかなりウケていても、シッブーい厳しい顔ばかりを抜き出していたんですね。
驚きました、ここ数年のM-1はぜんぜん違いますよね。
お笑いの権威たる審査員がネタに爆笑する顔を抜き出しているのが当然。
これ、凄く面白いなって。

 

M-1初期は「真剣な漫才コンテストです!」という主張のためか、「笑わせる演者」と「厳しい審査員」の対立も見どころのひとつだったと思います。
「自分たちのコンテンツに厳しい顔を見せ、自己批判できる、そういう余裕が自分たちにはある」という主張でもあって。
しかしテレビの力も落ちていき、そういう自己批判、自己コンテンツを厳しく批判することが有効とは言えなくなってきた。
M-1初期のように、コンテンツを自己批判することで価値を上げる時期は過ぎ、「このコンテンツは素晴らしいんです!」と自己プロデュースするのが効果的な現在なのだと思います。

もちろん合唱コンクールも同じで。
芸能、芸術として、辛口も含めた多様な意見の容認。
自分たちのコンテンツを貶めるような意見、批判はスパイスとして残して欲しいとは思いますが。
ただM-1司会の今田耕司氏は、総合得点が高い出場者には、「高い点数を付けた審査員」を優先して「何人も」発言を求め、スパイスとして一番低い点を付けた審査員から「ひとりだけ」意見を求め。
視聴者がその評価に納得できる流れ、良いバランス感覚になるよう考慮されています。

初期のM-1と同じに思えるんです。
自己批判が過ぎると、自分たちが与える賞の価値を下げっぱなしにしてしまう。
金賞を与えられた側はその賞に価値を見出せなくなってしまう。
A先生が抗議された、今の全日本合唱コンクール全国大会とハーモニー誌座談会は、そういうズレなのだと考えます。
合唱連盟・ハーモニー誌は、M-1の変化にならい。
出場者、聴衆が「金賞」に納得できるよう、もっと考えるべきではないでしょうか。


繰り返しますが、全国大会での、今後成長するための厳しい指導や発言はあっても良いと思います。
しかし、大いに認められた出場団体に対しては、肯定的かつ成長に繋がる言葉を。
さらに先へ進んでいくための言葉を贈りましょう、セットにしましょう!ということです。
もう一度書きます。

合唱連盟・ハーモニー誌は、出場者、聴衆が「金賞」に納得できるよう、本当に、もっと考えるべきではないでしょうか。

以上です。