「コンクール文化論 競技としての芸術・表現活動を問う」を読みました。
これは面白かった!ぜひ多くの合唱関係者に読んでいただきたい!
ショパンコンクール、韓国ダンスボーカルグループ、ストリートダンス、ポールダンス、インドネシア武術、秋田県地元一曲民謡大会、バリ伝統音楽、アイルランド伝統音楽、琉球古典芸能、そして日本の吹奏楽、合唱など「学校のコンクール」まで例に取り上げ、音楽だけでは無く「パフォーミングアーツ」が競技制になると、どう変化するかを記した本著。
「どの分野もコンクールはこれほど合唱と似通ってしまうのか!」と驚いてしまいました。
合唱コンクールの諸問題、それは審査員の評価であったり、コンクール用への音楽の変質や、一人勝ちと他大勢の敗者の心理的問題や、音楽を続けるモチベーションの喪失であったり・・・。
かなりの章で日本の合唱が抱えている同じ問題が語られていて、ここまでとは、そう唸ることに。
第8章の「学校とコンクール」は、自分には馴染み深いNコンや全日本合唱コンクール、アンサンブルコンテストも取り上げていて。
学生がコンクールへ精魂傾けてしまう理由を「燃え尽きるための物語」。
自分が主人公になり集団でコンクールに向かう活動を、「物語」という鍵で説明していく章も興味深かったのですが。
一番面白く読んだのは「第6章 発熱するコンクール バリの伝統音楽グンデル・ワヤンの事例から(増野亜子)」ですね。
1990年代まではコンクールが行われていなかったバリの伝統音楽。
演奏者人口拡大のため、2005年から小中高校生、若者のためのコンクールを行ったところ、とても盛り上がることになったが、それは良いことばかりでは無かった……という顛末。
冷静な筆致ではあるけど、コンクールによってドラマティックに変化するバリ伝統音楽の世界に興奮してしまいました。
コンクールスタイルの確立によって、地味で難解なグンデル・ワヤンは華やかに、また親しみやすくなり、それによって多くの人々をコンクールに巻き込んでいくことが可能になった。
しかしどう伝統音楽が変わったかというと
「技能を誇示して競技に勝つことに特化」
「速いテンポで複雑なパターンをダイナミックに、ぴったりそろえて演奏し、演奏者の身体を美しく『見せる』コンクールスタイル」
「振りつけやタイミングが揃っているか、一般の観客でも視覚的に判断できるコンクールスタイル」
「多くの人に感覚的に理解されやすいテンポの速さ、ダイナミクスの強調」
……に変わったというのです。
う~ん、こういう評や感想、いままで合唱コンクールでさんざん見たぞ?!
過去の伝統音楽の演奏と比較し
「派手なコンクールスタイル、その演奏は本来の音楽の在り方では無いと批判する人も少なくない」
「本来多様で多義的な演奏の在り方を、一つの枠組みに押し込んでしまう」という批判もあるそう。
さて、なぜこうも「コンクールは人を熱くさせるか」という問いに増野亜子氏は
●1回の演奏の価値が権威ある第三者に評価され、序列化されることにあり、それは端的に言えば、栄誉をめぐる「勝負」にほかならない
●「他の団体」より優れた演奏を目標に人々は努力し、その成果へ勝敗という明暗のコントラストが加わることに一連の過程はよりドラマチックになる
●努力の末に経験される達成感や満足感、勝利の喜びや敗北の悔しさなどの濃密な感情
と記されています。
なるほど、とてもよく理解できますね。
第8章の「学校とコンクール」でも触れていた「物語」化。
自分、そして周囲を巻き込んだ物語として、コンクールは非常に有効に働くわけです。
《聴衆としてコンクールの結果は選別にとても有効》
「ショパン・コンクール優勝!」はこの上ないキャッチコピーで海外に売りやすいことも記されていて。
聴衆としては、今まで知らなかった他の分野に触れようとすると、コンクールの評価を入り口にしないのは難易度が高いと思うんです。
自分のことですが、昨年いしいひさいち氏の「ROCA」という漫画をきっかけにポルトガルの国民歌謡「ファド」を詳しく知りたくなり。
検索し、出てきたYouTubeの動画を順番にうーんイマイチ、これはまあまあと聞き続け、10番目くらいに出たさまざまな歌手が出るファド動画が気に入り、今でも酒のお供にしています。
・・・でもこれ、自分がその時は10以上も動画を探す超暇人だから出来たわけで。
時間の無いときは検索して出た最初の動画で判断し「ファド、つまんね~」と放り出した可能性も高いんですよね。
じゃあYouTubeのトップ動画じゃ無く、売り上げトップの演奏だったら良かったのか?
もしくはリスナーが付けた評価「星☆4つ!」とか?
探そうとするものがマーケットにあって一定のファンがいれば良いけど、いや、そもそも商業主義の結果を信用して良いのか?
本書では「秋田県地元一曲民謡大会」を紹介していますが、その言葉で検索しYouTube最上位に出たのは、出演者が【大会日本一の4人】という「コンクールの結果」で選ばれた人たち。
もちろんコンクールの評価だって絶対では無いはず。
でも検索上位と「大会日本一の4人」というコンクールの評価が重なり、秋田の民謡に不案内な自分には、指針を得たような安心感があったんですよね。
「コンクールの評価」はもちろん全てでは無いのは重々承知しているけど、しかし代替となる自分の基準を出すのがメチャクチャ難しい。
《コンクールの問題点を克服しようとしている日本の合唱界?》
本書を読んだ自分の結論は
「コンクールはそのわかりやすさで、特に若年層へ訴求力が高いのは認めざるを得ない。ファミレスやファストフードが若年層に受けるのと同じ。入り口が広く、本来複雑な味の要素を上手く抽出し、ハッキリした味に惹きつけられてしまう人は多いはず。
合唱人口を増やす代替案が示せないなら『コンクールの是非』では無く、コンクールをまず受け入れ、コンクールによって削ぎ落とされた要素の補完や、コンクールの問題を緩和する方向へ進むのが効率的なのでは?」というものです。
例えば「コンクールスタイルへ特化した演奏の問題」へは、プロ合唱団の東京混声合唱団がNコンや全日本の課題曲を演奏する「コン・コン・コンサート」というものがありますね。
「これでもか!」という気合いの入った暗譜の東混のみなさん、指揮者の音楽性が前面に出た個性あふれる演奏が聴ける。
今まではどこかで「コンクール課題曲というものはミスの無いよう、お行儀良く演奏するモノ」という意識があったのですが、「課題曲と言えどもひとつの作品!」と東混のみなさんが真正面から対峙し、プロの本気で演奏してくれたのは、本当に価値あるものだと思います。
過去に、ある東混団員さんが「コン・コン・コンサートの演奏はお手本にならないというクレームがあった」と呟かれていましたが、それで良い、いや、お手本にならないからこそ良いんだと。
アマチュアでも、例えば東京のCANTUS ANIMAEさんのプログラミングなんて、人気の信長貴富氏の作品を、「コンクールに選びにくい作品」まで幅広く選んだり。
今回の三善晃作品展でも、混声合唱曲だけでは無く、児童合唱のための作品、ピアノ曲も演奏する。
他のアマチュアトップ団体でも、コンクールでは演奏効果の高い作品を演奏して観客を引き込み、演奏会ではコンクールの枠に収まらない作品を演奏する……という例はたくさんありそうです。
入り口はコンクール曲で気軽に入れるようにして、中ではコンクールの音楽の先やさらに豊潤な世界を示す。
コンクール大会のシステムも、「一人勝ちと他大勢の敗者」という状況を緩和するため、全日本では「金賞」を数多く出したりするのはそういう意識の表れかも。
(でも「コンクールへの連盟・ハーモニー誌への提案」にも書きましたが、敗者や特に若年層に対する「賞を与えた後」のフォローは、もっと考えられるべきだと思います)
《とは言え・・・》
「栄誉を巡る勝負」
「金賞や、他団体を越えるという明確な目的」
「自分や周囲を巻き込んだ物語化(ナラティブ)」
つくづく、コンクールというのは人間を燃えさせる、良く出来た仕組みだと思います。
でも・・・正直に言うと悔しいよね。
この本の「第6章 発熱するコンクール バリの伝統音楽グンデル・ワヤンの事例から」にもあるように、若年層、指導する教師と応援する父母とコンクールは相性がとても良い。
「合唱する若者」を増やすために、コンクールより有効な代替案が出せない自分には何も言えない。
でもね~、ちょっと前に流行ったハッシュタグ「男の人ってこういうのが好きなんでしょ?」というのがあって。
どうしてもエッチな方向を想像しそうになりますが、その後に「工事現場のでっかい重機!」やら「絶体絶命時、かつての敵が助けに来て共闘する!」とハズしたのが出てきて(笑)
コンクールは上手く人間の心理を掻き立てるもの。
「コンクール文化論」からは日本の合唱や音楽だけじゃなく、全世界、大げさに言えば「人類ってこういう(コンクール)のが好きなんでしょ?」と言われた気がして。
悔しいじゃないですか。
「好き!……だけどソッチじゃないんだよなぁ!(笑)」とハズした答えを示したい。
いや~~~、なんか無いですかね、「合唱する若者を増やす」コンクールに替わるもの。
それはサイゼリヤやマックに喜ぶ中高生に対し、「職人のこだわりレストラン」を人気店にしろ!みたいな超難易度だとは思うんだけど。
コンクールで得るもの、そして失うもの。
その問題を語り合うために「コンクール文化論」は絶好のテキストだと思います。
ぜひ多くの合唱関係者に読んでいただきたいですね。