ばかにしないということ。


3月9日の「ほぼ日」、ダーリンコラムにて
糸井重里氏がとても良いことを書いていた。


<ばかにしないということ。>
http://www.1101.com/darling_column/2009-03-09.html


これ、元々は毎日更新する『今日のダーリン』の3月6日のを
ふくらましたもの。
その日の『今日のダーリン』部分を転載します。

・「人をばかにしちゃいけない」というのは、
 よく言われることで、これはもう、
 まったくもってその通りなのです。
 人をばかにしていいか悪いか、という
 倫理の問題だけではなく、
 人をばかにしてトクかソンかという
 損得の問題だけでもなく、
 人をばかにして気持ちがいいかどうか、という
 快不快の問題だけでもなく、
 もっと大きな次元で、どーんと言えるんだと思います。
 「人をばかにしちゃいけない」んです。
  
 で、その「人」のなかには、
 つい忘れられがちな一人がおりましてね。
 それが、「わたし」なんですね。
 「わたしをばかにしちゃいけない」んですよね。
 あんがい、ぼくらは「わたし」をばかにしてます。
 どうせ、こんなもんだろう、と、
 高をくくって見ていたりするものです。
 ぼくも、そういうところがあります。
 「わたし」が、ばかにされてるものだから、
 ぐずぐずになっちゃうんですよね。
 おそらく、部屋がちらかるのも、禁煙ができないのも、
 朝起きられないのも、ダイエットに成功しないのも、
 じぶんで、「わたし」をなめてるからだと思うんです。
 
 ぼく自身のことを振り返ってみても、
 なにかがうまく行ったときというのは、
 じぶんのことを「ばかにしなかった」ときでした。
 ずいぶん苦しんだ禁煙にしても、
 「どうせ、おまえにはできないんだ」とは、
 思わなかったからできた、と言えます。


・昨日、WBCの試合を観に行きましてね。
 明らかに、まだ中国のチームはへたなんですよ。
 それをばかにしたら、なんにもいいことないんです。
 へたの段階にある中国の野球を、しっかりと見て、
 毛ほどもばかにしないということが、
 じぶんたちのチームをばかにしないことなんです。
 さすがに一流の選手たち、みんなそれができてるんです。
 重苦しい試合だったけど、とてもよかったです。


続いて、この文章を読んだ人の感想が
「じぶんを信じろ、と言われても
 ピンとこなかったのですが、
 じぶんをばかにしないでと言われたら、
 そうだなぁと思いました」というもので、これはホントに同感。


「自分を信じろ」と言われても
「信じられる自分なんていねぇよ!」と思っちゃうんだよなあ。


「信じる」という行為が、
大抵の局面を良い方向へ導くだろう、と
思い、願い、受容する、非常におおごとな行為なら。
「ばかにしない」というのは、もっとちいさなもので。
例えば100回挑戦して99回失敗しても残りの1回に
「ひょっとして成功するんじゃねえか?」と心のどこかで思うこと。
どんなにわずかな可能性でも、それは起こりうる、と思うこと。


翻って自分で考えると。
・・・99回は失敗したことだって
1回ぐらいは上手くいったことがあるんじゃないか?


反対に「ばかにして見る」って
物事や人物を「こういうものだ」と固定観念で思って
現状やその後を観察しないし、考えたりしないことだと思う。
だから「できないんだよ」と一度思ったら
後はそのまま、見ないし考えない。
「無関心」という言葉とそれは非常に似ている。


いや、次の挑戦が成功するか失敗するか、でも無いのだ。
自分自身を大きく評価することも貶めることもなく
いままで、いま、そしてこれからをしっかり見つめ、
そして「わたしをばかにしない」。


自分に興味があるうちは
「わたしをばかにしない」でいようと思います。