道徳的に許せない

 

6月10日。ジロウ氏による、とても興味深いこんなツイートがありました。

最近若い人に「道徳的に許せないことをした作り手の作品を見れなくなってしまう」と相談される。別に見なくてもいいのだが、彼らにとって「作品を見ることはそれを賞賛すること」になっている問題もありそう。文化系の人たちでも作品と距離をとって批判的・批評的に見るという習慣がない。


続くツイートも非常に興味深いのですが、とりあえず自分の考えを書いていきますね。
現在は、道徳的なことをご存命の詩人や作曲家にも強く求める傾向があって。
なぜだろうね?と知人と話したら、理由のひとつが

「作品から受ける感動が、道徳的に許せない作り手だと素直に受けられなくなる」

というものでした。
特に善性を持つ作品は、作り手もそうじゃなければ困る、と。

公正世界仮説と似たようなもので。
「良い心の持ち主こそが、良い作品を作って欲しい」
だから「これは良い作品だけど、作者の素行が悪くて……」みたいなのは脳がバグる感覚になるそう。
難儀です。いま若者じゃ無くても、問題起こした役者のドラマやCMは排斥したりするしなあ・・・(スポンサーとの契約もあるんでしょうけど)

 

こんなことを呟いていたら、まぐろ。氏からこんなツッコミが。

若い時から道徳的にNGなことをした人達の音楽も好んで聞いてきたせいか、そこに対しては私は何も気にならないです。
むしろ、世間的にアウトな人が世にも美しく素晴らしい音楽を作ってしまうことこそが人間の揺らぎというか業というものなのかな、と思ったり。


仰るとおり!
まぐろ。氏と自分は、ほぼ同世代と言うこともあり、主張されることは凄く理解出来ます。
しかし、現代はそれが許されなくなっている雰囲気は何故かな?と考えると。
「リテラシーの時代的な変化」があると思うのです。

 

《リテラシーの時代的な変化》

ミュージシャン、芸術家が犯してきた罪は窃盗、傷害、麻薬、不倫といったものでしょうか。
40年ほど前にヒットした、ロックスターの詩にある「バイク窃盗」「校舎不法侵入、器物破損」などは印象が強い。
ただ、犯罪が減少してきた現在、相対的に世間一般のリテラシーも上がり、今までは見過ごされていた、これら芸術家の犯罪が許されるものでは無くなった印象があります。

 

 

《道徳的・感情的に抵抗がある作品を避けるのはタイパ志向》


これは自分の経験から。
ハートウォーミングな家族を描いてきたクリエイターが、最近になって、実娘から虐待で訴えられた後に、過去の作品をどう捉えるか。
作品の素晴らしさと作者の性格&行動は切り分けた方が良いとは思いますが、それでも過去の作品に手を出しにくくなっている自分の気持ちは否定出来ません。


どうでも与太郎氏のツイート

ふと、これも「タイパ志向」の一種なのかなと思ったりしました。
自分を構築するためにそういう作り手の作品を摂取しようとすると非道徳的箇所を自分で洗い出して除去しなくてはならなくて、それなら他を当たろうみたいな。


↑ これも十分ありえますね。
そもそも、こんなに消費できないほどの大量の作品が存在するのに、自分が抵抗ある作品をわざわざ掬い上げる必要がどこにあるのか。

 


《現在は求めずとも大量に作者の情報が入ってくる時代》


上記と関連して、「作品と作者の情報が同時に数多く入ってくる高度情報社会」というのがあります。
ネットが発達するまでは、作品は作品として受け取り、作者の情報を知ろうとしたら能動的にならざるを得なかった、また雑誌や本などの資料の入手、そこから該当部分を探すなどハードルも高かった。
それが現在、望む望まないにもかかわらず、作品と作者は切り離せないものとして、本来なら知らずに済んだ情報が同時に、しかも多量に入ってくるのでは無いでしょうか。

 

 

《リテラシーの上昇、タイパ志向、高情報社会において》

ではどうするか?ということに自分は現在、答えを出せません。
もちろん、「作品と作者は別にし、距離を置いて批評することが、即ち知的な鑑賞なのではないか?」と私は考えます。
まぐろ。氏の「世間的にアウトな人が世にも美しく素晴らしい音楽を作ってしまうことこそが人間の揺らぎというか業」の主張も本当にその通りだと思います。
(逆説的に、「世間的にアウトな人が素晴らしい作品が作れるからこそ、人間、芸術は素晴らしい」とも言えるわけで)


しかし、それは「べき」論であって、「ではどうすれば良いか?」の具体的な方法が無いのです。
「作品を鑑賞するとき、作者の情報は入れないよう耳をふさぐ」というのも現実的ではありません。
(また現代アートではまさに「作者の行動・情報」が作品として重要なものになっていることも。バンクシーしかり)

 

《とりあえずの答え》

たとえば時間、心理的にも距離がある、もうこの世にはいない昔のアーティストの「作品」だけに触れ。
受けた最初の印象を大事に保存した後に初めて、作者の情報を受け入れ、作品と作者の繋がり、または乖離する部分を理解し、批評眼を育てる。
その繰り返しで批評眼が育ったころ、現在活躍するアーティストに適応する・・・というのが一般的な解なのでしょうか。
「それはそれ、これはこれ」というやつですね。


しかしそんな悠長な方法を、現在に生きる人が受け入れるとは思えないのです。
こう書いている間にも、不倫や麻薬で役者が降板され、出演された映像作品がずっと見られなくなっていきます。
罪を責めたり、罪を犯した当人を不快に思うのは当然です。
でも、「それはそれ」として、当人と、関わった作品を切り離すためには、どう考えて主張し、行動していくべきか?


それが、自分には全く、答えが出せないのです。
さて、みなさんはどうすれば良いと思いますか?