第30回宝塚国際室内合唱コンクール感想 その3

 

 

<シアターピース部門>

毎回「シアターピースの理想とは?」と
頭を悩ませるこの部門。

 

 

 

昨年の私の感想では



「楽曲が演出を求めている」、もしくは
「演出を加えることで
 (逆に、歌を加えることで)
歌が(演出が)魅力を増すことが出来るか」
歌と演出、相互作用によって
それぞれが引き立てられるのが私の理想です。
さらに加えるとしたら
「物語性」を感じたいなあ。


…なんてことを書いていました。
歌と演出の相互作用に物語性。
なかなかハードルが高いと自分でも思います。


今回、この部門の出場は
Men's Vocal Ensemble"寺漢" 1団体のみ。

銀賞を受賞。
(広島・18名・男声)
指揮は寺沢希先生、パーカッションは田中誠之さん。

演奏曲はMedia Vita(作者不詳)
キリシタン残照(曲・構成:寺沢希)


"寺漢"さん、演出も演奏も良かったんですよ!
メモとあやふやな記憶、想像で補っている部分があるので
実際のステージとは異なる箇所があるとは思いますが
記してみましょう。



ステージにはテナーが一人。
客席の壁沿いに他の団員が並び
ステージのテナーソロと呼応するようにMedia Vitaを歌います。
客席の団員は徐々にステージへ上がり。

するとステージ上部のオルガン席に3人の女声が並び、
グレゴリオ聖歌を歌い始めます。

ステージ上では司祭役の人を中心に
半円に並んだ団員がかくれキリシタンの儀式、おらしょを歌い。

日本土俗の匂いがある男声のおらしょと
その源流である女声のグレゴリオ聖歌は決して交わらず。
かくれキリシタンにとって
グレゴリオ聖歌が天から降ってくる歌、
つまり憧れや夢のように聞こえるのがポイント。

団員はふたたび客席へ戻り、
かくれキリシタンへの弾圧を想像させる場面へ。

(ここでパーカッショニスト田中さんが叩いた
 石油缶の激しい音が効果音として盛り上げていました)

厳しい弾圧、処罰によりステージ上に一人残った

かくれキリシタンの司祭は遂に、絶命。

すると今まで決して交わらなかった女声のグレゴリオ聖歌が
客席で歌われる男声のおらしょと初めて交じり合い。
優しく歌われる女声の「Kyrie eleison」に応えるように
最後は男声ソロが歌い、このステージは終わりました。


キリスト信者の死によって初めて、
神への祈りが通じ、天界からの迎えが来たのだ…と
思わせるラストが「なるほど!」と感じましたよ。

私の拙い記述ではなかなかこのステージの魅力が
伝わらないとは思いますが、
最初に書いた

「楽曲が演出を求めている」、もしくは
「演出を加えることで
 (逆に、歌を加えることで)
 歌が(演出が)魅力を増す」というのは
宗教が歌を欠かせないものとしている点でクリア。

弾圧があっても捨てなかった歌=宗教の重要性も感じさせました。
さらに物語性、ドラマも充分でしたね。

私には「これぞシアターピース!」と思える、
説得力のあるステージでした。




さて、先日発行された合唱連盟の機関紙
「ハーモニー 169 夏号」の

http://www.jcanet.or.jp/Public/harmony/
「続・日本の作曲家シリーズ」で寺嶋陸也先生の特集がありまして。

 

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そこでシアターピースの話題が取り上げられていました。
作品の筆致を理解せず安易に動きを取り入れるのは無意味ですが、
三善先生の作品へ深く入るため、
シアターピースを通したアプローチなんてのも面白そうで
色々と示唆に富む座談会です。



一部抜粋して転載します。
(※藤井=藤井宏樹先生、しま=しままなぶさん
  栗山=栗山文昭先生)




シアターピースが持つ教育的効果


藤井 最近は宝塚の国際室内合唱コンクールでも
   シアターピース部門を設けてるよね。

しま そうなんですか? 知りませんでした。

藤井 ただ、シアターピースというものの捉え方が
   広くなりすぎちゃって。
   隊列を組んでフォーメーションを変えれば、
   たとえばアニメソングでもシアターピースになるという
   考え方が出てきたりしてますよね。
   それがいいか悪いかは別にして。

栗山 おかあさんコーラス大会で「光る砂漠」に
   振り付けしたのを観たことがある。

藤井 ぼくが宝塚に審査に行ったときには、
   「水ヲ下サイ」に
       振りを付けるっていうのがありましたよ。

栗山 曲だけでやれば充分だと思うけど。

藤井 これだけ音楽的に筆致されてるから、
   演出家としては逆に何もできないよ、と
   発言することもあるわけですよね。

しま ありますね。動いて見せたいんだけど、って
   言われたとしても、

   いや、聴かせればいいじゃないですか、
   曲がそうできてるんだから、と。
   一方で、見せる作品は見せる作品として

   作ったらいいと思う。

栗山 柴田先生のシアターピースって、
   芸術的というよりもむしろ非常に教育的じゃないですか。
   たとえば「宇宙について」なんかやると、
   それによっていろんな知識を勉強できる。
   シアターピースでは、みんなが動くこと、
   身体で表現することによって、
   動かずに歌うときよりもいっそうドラマが生まれてくる。

   そして、たとえばしまさんのような演出家と付き合う。
   舞台監督とか、照明家とか、裏方とも付き合う。
   裏も表も一緒にものを作っていく。
   しまさんの演出でもよくあるけど、
   団員たちが道具、舞台装置まで作っていく。
   そうして総合的に学ぶことができる。
   それがシアターピースの持つ一つの意義かな、と
   ぼくは思ってるんです。

しま まさにそうですね。

(中略)

藤井 ぼくもシアターピースをやってみて、
   やる前とやった後では、

   使用前使用後じゃないけど(笑)
   歌手としての能力が全然違ったな。
   ただ単に音を取り、和声はこうだよ、
   発声はこうだよ、って
   コンクール的に勉強していっても
   得られない歌手としての能力、
   人としての能力っていうのかな。
   音楽と共に生きていくということを
   高めていく方法としても素晴らしいと思うんです。

   ぼくは三善先生の作品が大好きで
   よく演奏してたんだけど、
   譜面を読み込んで歌っていっても、
   筆致が多いから読み込むだけで終わって、
   その譜面で止まっちゃう演奏になりがち。
   でも書かれたことを表現するのにそれでいいのか。
   考えてみると、先生は東大演劇部だったりする。

栗山 そう、三善先生は演劇をやってらしたんだよね。

藤井 必ずそういうものが土台にあって、
   それが譜面に落とされているわけです。
   再現するためにはそこまで持ってこないといけない。
   となると、ソルフェージュだけ良くてもダメ、
   詩が読めるだけではダメ、ということに
   つながっていくんです。

(後略)






さて、今日からしばらく札幌へ帰省します。
帰省中に近現代部門、
無差別級グランプリ大会の感想を書ければ良いのですが…。
iPhoneだと書くのもそうだけど、更新が難しいんですよねえ。

 


そんなわけでいつになるかわかりませんが(笑)

(つづきます)