「声が世界を抱きしめます」 谷川俊太郎 詩・音楽・合唱を語る
谷川俊太郎 (著), 中地雅之 (編集)
読みました。
東京学芸大学合唱講座での、合唱を演奏した上で谷川氏のお話を聞くという形式なので、「ひみつ」「死んだ男の残したものは」「生きる」「かなしみはあたらしい」「信じる」「春に」などの人気合唱曲の詩について、ご本人のお話が読めるのが嬉しい。
特に「サッカーによせて」では谷川氏は「(サッカーは)見たこともやったこともない」そうで、さすが「注文に応じて詩を作る谷川俊太郎!」と別の意味で感心することに(笑)。
歌と詩の関わり合いについての話はもちろん興味深いのですが、個人的には学芸大の合唱ということで「教育面での合唱における詩」について、谷川氏の批判的な文言が面白かったりして。
司会者の「作曲家の意図と詩人の想い」という言葉に反応して「詩人の想いっていうのはないんですよ。日本語があるだけで。」と否定する。
「信じる」に関しても「歌詞の場合、この信じるっていうことばを歌になった場合にできるだけ力強いものにするために、あんまりそういう疑う部分っていうのは書けないわけですけれども。(中略)僕がもちろん、たとえば何かについて、八割は信じているけれども、後の二割はちょっと疑わしいっていうことのほうが多いものですから。こういう合唱の歌詞に書く場合には、そういう自分の現実のリアルからはちょっと離れて、ことばとしてもうちょっと一方的に力強いものにしようと思って書いていますね」
「信じる」に関しては、司会者が「自分にうそがつけない私」「そんな私を私は信じる」という言葉に多少後ろめたさを感じてしまうという感想に、谷川氏の「基本的に詩は美辞麗句なんですよ。だから、全然心配しなくていいんです」「現実じゃないことをやっぱり詩は書いていますからね。自分はなんか書いていて後ろめたいと思うことはありませんけど」「こういうこと本当は自分ではやっていないなってことをいっぱい書いてますね」
…正直だ!(笑)
続けて、この司会者さんとのやり取りなんかはニヤリとします。
中地 先ほどの「詩は音楽にあこがれる」ということに関して、もう少しお話しいただけますか。
谷川 それは「音楽が無意味である」っていうことに尽きますね。音楽はまったく無意味っていうのが強いですよ。ことばは意味に囚われてしまうんですね。そのために迷ったり間違えたりなんかするんだけれども、音楽はそういうことがない。
「音楽はまったく無意味」! うーん!(笑)
司会者さん、食い下がります。
中地 意味を超えて、音自体で語りかけているような…。
谷川 ……。語り掛けてはいないんじゃないかなあ。存在するものと表現されたものっていうのは別のものだと思うんですね。芸術は全部表現されたものになってしまうでしょ。だけど、それよりもっと前に存在しているものがあるわけで、音楽っていうのは存在しているものに、なんか触れてくるところがあると思うんですけどね。
最後に「合唱」という詩に関して、一人の声とはまた違う声に合唱がなっていく。個と個の関係にあった詩が合唱になることによって、何かまた別の次元になっていくように感じました。
という言葉に対して谷川氏は
合唱は一種の宗教的な次元の違う高みに行く場合もあるし、一種のアジテーションみたいなところもありますよね。だから、合唱はその両面をもっているということを自覚していたほうがいいな、というふうにはずっと思っていましたね。
国語、音楽の両方で扱われることの多い谷川氏の作品。
しかしいわゆる「学校教育」というものに馴染めなかった谷川氏の、批判的な視点が良いスパイスとなっている本でした。