東混・三宅悠太の世界を視聴しました



東京混声合唱団 コンサート・シリーズ【合唱の輪】Vol.3三宅悠太の世界 アーカイブ視聴をしました。

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作曲家:三宅悠太先生プロデュース&指揮による演奏会。
最初に演奏された近作「ひとめぐり」の心の高まりと同期する音の広がりに圧倒。
この演奏会の「光を掬い、音を紡ぐ」とは良いコピーで、光る音の連なりは宝石のものではなく、例えば幼子の頬の産毛と共に輝く光。
心に寄り添う光。


続く私が大好きな「子守唄-立原道造の詩による小さなレクイエム-」は三宅先生が高校3年の時に書かれた最初の合唱作品。
さすが東混で、ゆるやかなテンポでも思い入れ深く、緊張感を途切れさせない名演。
完成度高い名曲との感想を新たにしました。

続いてのNコン課題曲:荻久保和明「砂丘」は懐かしく、木下牧子「めばえ」はやはり名曲。
(三宅先生が言及されていたのは、都大会での府中西高校の演奏だけど、安積女子の名演もどうぞ!)

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話はここからズレてしまうのだが、こういう「砂丘」「めばえ」のような自然現象に自己を重ねる詩は、Nコンではいつまでなんだろ?と中学・高校の部を遡ってみた。
平成17年(2005年)の川崎洋「風になりたい」が最後っぽい。

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その後の詩は「僕」もしくは「僕と君」の世界になるようだ。

 

同じ年の中学課題曲はねじめ正一「花と一緒」
これは夫に先立たれた花屋の未亡人が題材の作品で、横山潤子先生の作曲が光る良作とは思うものの、今の中学生が喜んで歌ってくれるかと考えると難しい。
(……いや、当時の中学生もどうかな)
でもこういう一見歌う自分と詩の対象が遠い合唱詩は、自分の感覚では昔の方が多かった。

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あくまでも自分の感覚だが、Nコン課題曲に限らず、合唱曲の題材が自分と遠く離れることは少なくなっているように感じる。
理由はさまざまだろうが、それは三宅先生の「人とのつながり」「心に寄り添う」という言葉と関連している気も。
良い悪いでは無く時代の変化なのかな?
プログラムの中、谷川俊太郎「私が歌う理由」で三善先生の作品を思い出したが、最初の部分を初めて聴き「心に寄り添って」いると考える人は少ないのでは。
もちろん一見アンマッチなことが作品の魅力、深さになっていることは私が言うまでも無いだろうけど。

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↓庵野監督のこの発言から広がる意見。


庵野秀明監督「謎に包まれたものを喜ぶ人が少なくなってきてる」に同意の声。既に「解らないもの=面白くないもの」として切り捨てられる時代が来ているらしい

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自己を自然や縁遠い他者へ重ねることが、難しい時代なのかな。
受け手が共感を追い求め過ぎることで、創作者が作品としての幅や深さを限定してしまうとなるとちょっと面白くないですね……。


↓ 音楽については、この辺も理由として考えられるかもしれない。


「サブスクリプションの音楽サービスが流行りはじめてから前奏が平均5秒までに短縮された」という話に色々感じることがある方々

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友だちのミュージシャン「ここ数年、いきなりサビを持ってくる曲」急増 / 「いきなり主人公の村が焼き払われるRPG」も急増

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音楽のサビアタマと同じく、詩も最初で「自分のための詩!」と思わせなきゃいけない、ような。




三宅先生の作品に話を戻すと、何度聴いてもふしぎに新鮮な音の印象。
ヒット曲の条件とは新しさと懐かしさを同時に感じさせること、みたいな言葉を思い出して。
アンコールの金子みすゞ「このみち」までたっぷり堪能しました。

ちなみに三宅先生の合唱の始まりは。
バスケットボール部を辞め彷徨っているときに、合唱部の先生に「Nコン課題曲のピアニストを探している」と合唱部見学に誘われたのがきっかけとか。
「今でも『砂丘』は暗譜で弾けます」と三宅先生。
会場にもおられたそうだけど、当時の合唱部の先生、本当にGoodJobです!!

 

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